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ゴルバチョフの死を悼む (2) - 民衆との対話を演じた勇敢な指導者とその蹉跌

政治家としてゴルバチョフを回顧するとき、忘れられないのは、民衆との対話の姿である。映像を見ながら心底から驚かされ、感激させられた。ゴルバチョフは実際に民衆の中に進んで入って行った。歩いて抗議者の群れと対峙した。ロシアは決して(過去も現在も)治安のよい国ではない。そのとき、88年頃だったと記憶するが、ソ連経済はマイナス成長の縮小循環に陥っていて、深刻な経済危機に襲われていた。給料の遅配欠配が各地で相次ぎ、政府への国民の怒りが沸き起こっていた。ペレストロイカは国内経済の面ではうまくいかず、逆に経済全体の破綻と崩壊の様相を呈していた。

そうした民衆の不満と憤懣の渦の中に、ゴルバチョフは自ら飛び込み、自己の信念と方針について説得を試みていた。群衆と隙間なく身を接し、唾を飛ばし合い、揉みくちゃにされる状況で、自らを激越に批判してくる人々と対面した。路上で無名の市民を相手に喧々諤々の討論をした。警備も何もあったものではない。書記長だからソ連のトップである。激動の時期に、よくこの大胆な行動ができるものだと、テレビを見ながら私は興奮し、危険を顧みず対話の政治を行う指導者の勇気に感嘆した。ゴルバチョフは、まさにこうあって欲しいと願う政治家の像を見せ、若い私を魅了した。社会主義とは理想主義である。

その後、「ワーキングプア」の問題の折だったと記憶するが、左派の集会に足を伸ばし、野党の幹部の前に進み出て、勇んで建議の具申に及んだことがある。福島瑞穂を相手にしたとき、どんな経過と顛末になったかは、過去のブログで書いたので省略する。ご存じの読者も多いだろう。彼女は『どきどき日記』で妙な釈明をしていた。小池晃のときは、いきなり無礼に「おたく、誰?」と言い返され、卑劣な態度で逃げて行った。市民が真面目に質問と提案を試みているのに、小池晃は全く耳を貸そうとしなかった。この二人との体験で幻滅した後、私はかかる民主主義政治の模索と実践を中断した。

ゴルバチョフだったら、その場で何十分でも議論できただろう。今、そうした姿をかろうじて見せているのが山本太郎で、その点で評価できる。無名の市民でも、批判者でも、路上のミニ集会に紛れ、その場で突発的に意見を発せられる。山本太郎はそれを聴き、上手に応答する政治のダイアローグの技能を心得ている。それを一つの持ち味にし、辻説法の見せ場にしている。大したものだ。逃げず疎んぜず聴くことができるかどうか、飛び込みを遮断せず対話に応じられるかどうか、そこが民主主義の政治家の資質が問われるポイントだ。度量がないとできないし、自信と知恵がないと対応できない。ゴルバチョフは理念型だった。

報道では、ロシアでのゴルバチョフの評判は芳しくないという結論になっている。世界的には支持と尊敬を集めながら、ロシアでは厳しい総括が与えられている。その理由は、ゴルバチョフがソ連崩壊を導いた責任者の立場だったからであり、ロシア国民がソ連崩壊によって経済的にも精神的にも打撃を受け、途端の苦しみを味わったからだ。崩壊後、90年代の経済的な混乱と困苦は筆舌に尽くし難く、その過酷な経験があるため、ロシア人は今回の西側による経済制裁も耐え凌げるのだと言われている。経済的な絶望だけでなく、そこにはロシア人として自我の価値剥奪と社会秩序の崩壊があり、耐えがたい屈辱の連続があった。

だから、ロシア人は90年代の地獄と荒廃を恨み、そこから徐々に解放され立ち直った00年代を肯定するのである。ソ連崩壊後の破滅をもたらした張本人をゴルバチョフだと指弾し、00年代に経済を回復させ秩序を取り戻した功労者をプーチンだとして支持するのだ。プーチンによって大国ロシアの体制と面目が守られ、ロシア人の自尊心がこれ以上傷つかずに済んだのだと、プーチンの国家防衛の成果と意義を認めるのだろう。リアリストのプーチンと比較したとき、楽観主義に徹して西側に妥協するだけだったゴルバチョフは、理想主義の甘ちゃんで、ロシアの国益と民富に対して無責任で、結果を出すことができないまま混乱と破壊へ転ばせるだけの無能だった。ロシア人はそう考えている。

ゴルバチョフを弁護するなら、ソ連の崩壊を主導して政変を仕掛けたのはエリツィンで、ゴルバチョフはソ連を守る側にあった。責任を追及し糾弾するならエリツィンの方だと傍目からは思うが、ロシア国民の視線は厳しい。エリツィン的な過激な急進派が左にあり、保守派が右にいて、対立と政争の中でゴルバチョフは実権と指導力を失った。私の認識では、エリツィンとの間でカリスマ競争となり、エリツィンが対抗心剥き出しで権力の野心を持ったことが、政治的方面でのゴルバチョフ失脚の契機である。二人が仲良く協調すればよかったが、政治の世界では(特にロシアでは)そうはいかない。だが、根本の要因は、ゴルバチョフが経済政策を失敗させた点に帰結する。

ゴルバチョフは政治の人であり、政治プロパーの指導者で、経済のビジョンやノウハウを持ち合わせず、有能なブレーンもいなかった。ソ連型の統制経済をどのように市場経済に移行させ、マイルドに着陸を図り、民富の充実と安定を得るか、その点についてアイディアと実行力がなかった。経緯の詳細を穿り返すことはせず、どうすれば失敗せず成功へ導けたのか、こうすればよかったというイフヒストリーの着想を述べたい。私なら、宇沢弘文を経済顧問に起用した。返す刀で、即、四島返還と日ソ平和友好条約締結を断行し、日本の政府と財界から資金と技術の全面的な支援を受けた。日本をフル活用した。あの頃の日本は世界一の金持ちで、日本国内に札束の山が腐っていた。

バブル経済に沸く日本は世界一の金満大国であっただけでなく、現在の中国のような、最先端テクノロジーでも米国を凌駕して製造業の主導権を握ろうかという鼻息の荒い国だった。宇沢弘文を経済の指揮官に就けることで、ヨハネパウロ2世の全面的なバックアップを受け、アメリカも妨害や干渉はできなかっただろう。国内の政争で窮地に立った小沢一郎が、失地挽回の思惑で91年に日ソ条約交渉に飛んだ事件があったが、そのとき、幹事長だった小沢一郎は1兆円を鞄に詰めていたと報じられた。ゴルバチョフがその3年前に素早く決断していれば、日本の経済界は、80年代の日中友好プロジェクトと負けない規模とエネルギーで、極東とシベリアに資本投下し、技術開発をプロモートし、そこに市場経済の成功の地平を創出しただろう。

曹操の老驥のように見果てぬ夢を見る。ゴルバチョフの腹心には、ヤコブレフがいて、シェワルナゼがいて、いい男ばかりだったが、経済分野に精通した識者がいなかった。エコノミクスの精鋭と達人に欠いていた。ゴルバチョフにはその人材を集めるセンスとスキルがなかった。ゴルバチョフが構想提示するべきは、アベノミクスのような骨格と絵柄を持った大風呂敷だったのである。そしてその考案と設計と建設は、日本人に任せるべきだった。宇沢弘文とそのチームを司令塔とし、日本の大学と財界から(資金付きで)大量の人材を入れ、80年代に日本人が中国で行った現場指導を再現させ、企業人を教育し、生産と流通を整序的に生育し、律動させ、市場経済を首尾よく回転させればよかった。

ゴルバチョフに対するロシア人の反感や不快感は理解できる。簡単に言えば、彼らにとってゴルバチョフは「ええかっこしい」であり、口先だけ達者で中身の薄い空論家で、絵に描いた餅を食わせて満足する名望家だった。ロシアを貶下し圧迫する西側が、上も下もゴルバチョフ絶賛の声を上げるものだから、なおさらロシア人は反発と嫌悪を覚えるのだろう。その批判の気分は自然である。私はゴルバチョフが大好きで、いつもゴルバチョフを凝視していたけれど、ゴルバチョフは政策の詰めが甘く、政策に具体性がなかった。市民の期待を調達する青写真の提供の要素がなく、抽象的で啓蒙的な演説と訓話と諭告ばかりだった。実務や民生や景気に繋がるコンセプトとガイドラインがなかった。

政治哲学の範疇で言葉が止まり、つまりは美辞麗句の空回りに終わっていた。そこに、精密で几帳面な日本人が経済政策を担えば、ペレストロイカは実を結んでいた。着手2年目から基本設計が動き始め、極東とシベリアで経済の急成長・急拡大が始まり、3年後には世界が刮目する経済再生の絵が実現できていたと想像する。INF全廃条約が87年だから、その時点なら、抵抗を押し切って一気に日ソ平和条約に突き進むことは可能だった。この頃、グラスノスチの成果が現れ、国内でスターリン時代の恐怖政治が自己批判され、ソ連の歴史的暗黒に対する真摯な反省意識が生まれていた。それは、対外侵略の過誤への贖罪と清算を認める空気となり、世論調査でも四島返還への同意の声が増えていた。無論、それは、金満日本からの見返りの期待感を含むものだった。

ペレストロイカの期間は、ちょうど日本のバブル経済と重なっている。野村総研の試算によると、バブル崩壊で泡と消えたマネーの総額は、土地と株式を合わせて1300兆円と言われている。株式だけで574兆円の消失。この1割の130兆円でもロシアの開発投資に回していれば、ロシアは、特に極東とシベリアはどれほど華麗に変貌を遂げただろう。モスクワとサンクトペテルブルク間、ウラジオストクとハバロフスク間には新幹線が通ったかもしれない。この頃の日本は本当に強勢な繁栄国で、アメリカに対して外交の独自性を持っていた。経世会が仕切っていた。もし上の想定が現実化していれば、21世紀の日本のエネルギー事情は今とは全然違っている。ソ連邦の帰趨は別にして、90年代のロシア経済の窮迫と混迷は回避されたか、大いに緩和されたことは確実だ。

経済大国となった中国の消費者は日本製品が大好きで、日本ブランドに目がないが、上に描いたような展開を辿っていれば、ロシア市場も同様の性格になっていたと思われる。四島返還を実現した日本は、自信を深めて新たな国家戦略を打ち出し、残された北朝鮮との国交正常化へ向かっただろう。四島返還と日本支援での経済改革は、日ソ(日ロ)両国にとってWinWinの道だった。経済で躓いて失脚したゴルバチョフに、この手があったじゃないかと私は一度言いたかった。四島返還を決断できるとすれば、譲歩と妥協に躊躇しないゴルバチョフだけだったし、理想主義的な倫理観を持ち、歴史認識に謙虚な人格のゴルバチョフだけがその選択ができた。エリツィンには特に政敵もなく、国内基盤ははるかに盤石だったのに、そこへ飛躍する器量がなかった。

イフヒストリーのイマジネーションを追悼文の中身にするのは、何かそぐわない気もするけれど、理想主義者のゴルバチョフには逆にふさわしいようにも思われる。颯爽とした雄姿を思い出しながら夢を見続けたい。


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