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日本の政体、日本の社会契約、日本の国家理念、日本の民主政治の原理 - 単なるリベラルデモクラシーとは違う

前回の記事で、今の日本には憲法はなく実質的に無憲状態だと書いた。だが、最高法規は存在して、国家の最高法規は日米安保条約と日米地位協定だと述べた。日米同盟が憲法の代役を果たしていて、立法・司法・行政・マスコミを統制し、軍事のみならず経済から教育まであらゆる領域を拘束している。この現状認識については、多くの者が同意し同感するだろう。主権国家の憲法は、その国の社会契約の根本と核心が成文化されたものだ。この国の個々がどういう国家を作り、どういう国家権力の下で associate するかを約束したのが憲法で、憲法には国家の理念が書かれている。前文にそれが宣言されていて、条文(統治機構と人権保障)はそれを骨格として具体化したものだ。

制定されているわれわれの日本国憲法を見たとき、果たしてこれはリベラルデモクラシーの憲法であると概念規定してよいのか、リベラルデモクラシーの憲法の範疇に分類してよいのか。通念となっているその理論的整理は安易で短絡的な裁断ではないかと、最近強く思うようになっていて、以下に試論を並べてみたい。最初に結論を言えば、日本国の政体は単純なリベラルデモクラシーではない。米英欧と同じ平板なリベラルデモクラシー(議会制民主主義)の国ではない。日本国の国家理念は独特で、彼らとは社会契約の中身が違う。分かりやすくその特質を表現すれば、リベラルデモクラシーの上位互換に位置する次元の高い民主制であり、敢えて命名するなら、ラディカル・ピース・デモクラシーと呼ぶべき政体である。より先進的で未来的な民主制の理念が掲げられている。

長谷部恭男のリベラルデモクラシー憲法論

ここに長谷部恭男の岩波新書『憲法とは何か』がある。日本国憲法についての認識と理解は、権威である長谷部恭男の理論が標準になっていて、この本が現代人の入門的教科書となっていると言って差支えない。2006年に出されたこの本には、立憲主義の立場からの日本国憲法の基礎づけが与えられていて、立憲主義が簡略に説明されている。現在の一般市民の憲法論の常識が提供されており、特に左派(立憲民主・共産・社民)においては金科玉条の真理がガイドされているという扱いになるだろう。第2章が特に重要な部分で、ここで長谷部恭男はルソーの戦争論を援用して、戦争とは異なる政体間の闘争であり、相手国の国家原理すなわち憲法を否定するのが戦争であると論じている。

この有名な提議は加藤陽子にも引き継がれ、この国の社会科学界で定説のように徘徊している。ルソーの戦争論から20世紀の現代史に論を運んだ上で、国民国家は、①議会制民主主義(リベラルデモクラシー)と、②ファシズムと、③共産主義と、三つの原理が戦う政治空間となったが、冷戦を経て、人類は①のリベラルデモクラシーを選択することで闘争を決着させ終焉させたと言うのである。こうした論理的方法で、リベラルデモクラシーの勝利と価値の普遍性を説き、立憲主義の優越を言う。現代人にとって耳になじんだ「正論」のセオリーであり、ほとんど反論不可能に思われる主流の説だ。だが、よく聞くと、何だ、これはフクヤマの『歴史の終わり』の主題ではないかという意味にも受け取れる。本質的にネオコンの説法と思想ではないかと。

戦争から人民を守る別次元の民主制

私は、ずっと立憲主義の憲法論に違和感を抱いていて、ブログでその意見を書き続けてきた。日本の憲法論壇で立憲主義が強調されるようになったのは最近のことで、私の学生時代は異なる環境だった。当時の主流は杉原泰雄と奥平康弘であり、その左側に長谷川正安がいた。樋口陽一もどこかにいた気がするが、今のように立憲主義の提唱と訓詁ですべて終わりという世界ではなかった。日本国憲法の説明に当っては、何より平和主義が第一に説かれ、平和主義で基礎づけられる学説と講義が支配的だった。日本国憲法の真価は9条にあり、日本国の国家理念は戦争と武力を放棄したところにあった。前文を読めばそう書いている。日本国の社会契約の中身は、政府に戦争をさせない諸個人の結合なのだ。戦争させないという誓いと目的の下でのデモクラシーである。

ここが他の先行する欧米諸国の憲法と全く違う点で、他の国々は国家の定立と運営に当って戦争を前提している。ホッブズもロックもルソーもトクヴィルも、戦争しない国家などという想定や観念は全くない。だから、英国も米国もフランスも平気で当然の如く戦争するのである。戦争で問題解決を図る。それが正当化されている。彼らとわれわれとは平和の概念が異なり、彼らの平和の意味は安全保障であり、軍備を構えて敵国と対峙し、場合によっては戦争して国益を確保するのが彼らの平和の発想だ。ピースとセキュリティが欺瞞的に混然一体化している。ロシアも中国も同じ。他方、日本国の国家理念は、戦争という行為を正当化しない。戦力不保持まで約束しており、問題解決は話し合い(外交)で可能だという理想と信念が定礎されている。丸山真男はこう言っている。

丸山真男の憲法9条論

ご承知のように、憲法の前文に、日本国民は「われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、(中略)自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とあります、この言葉はまさに「そもそも国政は..」以下の人民主権原則の宣言への導入部の位置を占めているのですが、ここには戦争というものが、経験法則に照らして見ると、直接には政府の行為によって惹起されるものだという思想が表明されております。すなわち政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起こらぬよう、それを保障するということと、人民主権の原則とは密接不可分の関係におかれている。

(中略)政府が起こす戦争で、勝利の場合にさえ、民衆はむしろ戦争の最大の被害者であるといえるわけです。とすれば、政策決定の是非に対する終極的な判定権というものが人民にあるという、人民主権の思想 ― つまりアリストレスが「家が住みやすいかどうかを判断するのは建築技師ではなくて、その家に住む人間である」という比喩で、デモクラシーを基礎づけておりますが、政策決定によってもっとも影響を受けるものが政策の是非を最終的に判定すべきであるという考え方というものは、まさに戦争防止のために政府の権力を人民がコントロールすることのなかにこそ生かされねばならない。それが前文の趣旨であり、ここに第9条との第一の思想的関連性というものを考えてよいのではないかと思います。

『憲法9条をめぐる若干の考察』 丸山真男集 第九巻 P.263-264
  

前文における二つの決意 - 戦争放棄と武力放棄

日本国の社会契約であるデモクラシーの中身は、単に自然状態から個々の権利を守るために国家を作り(ホッブズ)、その統治権力主体が人民である(ルソー)という一般的抽象的な国民主権ではなく、もっと具体的に、戦争をさせないために人民が統治権力を行使し制御する国民主権という構想になっている。戦争から人民を守るためのデモクラシーという命題になっている。前文を読むと、「決意し」という言葉が二箇所出てくる。その二箇所とも、9条に関わる文脈であり、一つ目は9条1項の戦争放棄を意味し、二つ目は9条2項の武力放棄(平和を愛する国際社会の信義に依拠)を意味している。注意してご確認いただきたい。ここで日本人が決意して社会契約した中身は、9条の平和主義国家であり、それを実現するためのデモクラシーなのである。ただのリベラルデモクラシーではないのだ。

日本の国制は、英国や米国やEU諸国のそれと同じではない。同列ではない。外形上は議会制民主主義のフォーマットであるけれども、その民主主義の原理がまるで違う。デモクラシーの基礎と意味が違う。社会契約した人民の決意の中身が違う。国家の最高価値が違う。国民の価値観が違う。われわれ日本国民が掲げて仰ぐ国家の最高価値は平和である。平和主義だ。戦争のない社会を作り、維持し、世界を戦争のない世界にしていくことが、この国をアソシエイトする日本国民の基本精神である。われわれはそう誓って日本国を建てている。そのことを、嘗ての憲法学者や知識人は熱く説諭していたように思うし、何より丸山真男が政治学の言葉で指導してくれていた。それ以上に、前の天皇皇后夫妻が、リーダーとして国民に教育してくれていた。象徴として日本国の姿を体現していた。

■ 上位互換の憲法 - ラディカル・ピース・デモクラシー

そのことを忘れてはいけないと思う。長谷部恭男のリベラルデモクラシー論と立憲主義論は、日本国憲法を説明する理論として正しくない。基本的に誤った認識を示している。日本国憲法は、私の言葉で言えば、上位互換の憲法だ。18世紀19世紀のリベラルデモクラシーに安直に還元できる思想体系ではなく、20世紀の人類史の経験に基づいた、もっと先の理想を追求したものである。長谷部恭男の理論は、日本国憲法を欧米並みの低位のレベルに矮小化している。平和主義を捨象している。その理論の動機の根幹にあるのは、ネオコンのフクヤマの『歴史の終わり』の貧相なイデオロギーであり、英米リベラルデモクラシーを絶対化し、そこからの思想の発展を認めない偏見だろう。佐々木毅と同類だ。私の目からは、憲法学界の日和見と転向に見え、冷戦後の歪んだ思想状況に追随する「つぎつぎになりゆくいきほひ」に映る。

昨日(12月16日)、とうとう反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有の明記を含む「防衛3文書」が閣議決定された。岸田文雄は、この恐るべき軍国主義の軍備拡張策の決定を「憲法の範囲内での対応」だと言い、「専守防衛の考え方に即」したものだと言い、「平和国家の歩みは不変」だと言っている。そのウソと開き直りに対して、マスコミ公共空間でまともに反論する者がなく、欺瞞と矛盾がそのまま議論としてまかり通り、松原耕二や堤伸輔の放送の言葉として流れている。今日始まったことではないが、溜息をつきながら憤怒を覚える。赤坂御用地に隠居棲まいする上皇と上皇后は、テレビを見てどう感じたことだろう。こんなことを平気で言って済ませている国と社会だから、憲法など無用で、お飾りなのである。言葉は要らない畜獣なのだ。アメリカに奉仕するイヌなのだ。


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