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エッセイ3:汗腺と未来、開かれて。

 ここはひとつ、彼を信じようと思った。スティーブ・ジョブズ氏を、である。いつかのスピーチで、彼はこういうことを言った。「人生の中で経験する物事の多くは、始めは離れた点々の様に無関係で無駄に思われる。しかしやがてそれらは線となって繋がり、どれも有意義だったと後から分かるものなのじゃ」と。
ジョブズさんが本当にこんなことを言っていたか記憶は定かではないが、ともかくその言葉を信じることにした。事実かどうかじゃない、信じる心がタイセツなんだぜ。

 あの徳利眼鏡長者が言うのだから、私も今はこんな感じで問題ない。私は正しく自分の人生を全うしている。

 先日、ある授業で生徒が順に、自分が課題で制作した作品について解説することになった。そのときの課題は「自分の苦しみを形にした怪物を創造し、自らそれに扮装し、写真を撮る」というものだった。

 私の作品は他の生徒たちに比べて、明らかに稚拙だった。予算や時間のかけ方、アイデアの面白味、考えうる全ての要素において劣っていた。だいたい提出期限の直前まで先延ばしにして手を付けず、深夜二時頃やけくそになって作ったものだから、作品としての底が知れている。テーマも、自分には本当の顔が無い、といういかにもひねりのないありきたりな内容だった。

 私が提出した画像において私は、安っぽい紙の工作に覆われている。制作時、手を加える程にみすぼらしくなっていくように感じられたが、かといって他に方法が無かった。それは自覚的な駄作だった。

 作品解説の順番が回ってきたとき、「私は今、緊張している」と改めて思った。脇汗が宿主のストレスを周囲に伝えんと不快な臭気を発散させていた。しかしこれはおよそ現代において不要な機能ではないかと思う。どうせなら皆が喜ぶいい匂いを発散したい。

 プロジェクターで大写しにされた自分の写真を目の当たりにしたとき、あまりにいたたまれず私は「笑い」に逃げる選択をした。私は、就活に疲れて自棄になった、などと自虐を織り交ぜて説明した。軽快かつ超然たる雰囲気を意識して語った。無闇に余裕ある感じで。なんとか話し終えて周りの反応をおそるおそる伺うと、ややウケであった。やや、ウケていた。

 にわかに暗雲が立ち込めた。アイデンティティの不安という今回のテーマは、ありきたりでも、自分にとって切実なものだったと、このとき痛感した。私は自分と向き合うには精神的に貧弱過ぎた。そういうとき私はいつも薄ら笑いでやり過ごしてきた。そしてこれからもそうなるのではないだろうかと考えた。脇汗とややウケに塗れて。

 でも大丈夫。こんな経験も、人生の中の、大事な経験のひとつだから、最後には必ず、線が繋がるから。この点が必要だったって、後から分かる。分かるんだよね。後で分かると知っているということは、今分かっているのと同じではないか。すると既に正しいところに私はいることになる。ありがとうございます。よろしくお願いします。

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