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走れ!私の苦しみよ

 そういえばこのサムネイルみたいな画像、全て自分で描いたりコラージュしたものです。今度絵についての話もしようかな。
 全体にだるい文章になってしまったけど時間がないのでこのまま載せちゃおう。


 ここのところ気分の調子が悪い。これ、どう考えても自宅に篭りきりのせいでしょ。発狂すんぞ!

 私は大学受験で浪人の経験があり、その頃ずっと自宅にいたので、家から出ない生活に多少は慣れているつもりだった。しかしこれはちょっと質の異なる辛さがある。

 浪人は自分の努力いかんによってその生活から抜け出せるかどうかが決まるのに対し、今の生活は終わりが見えない。これが意外とだるい。
私は浪人の頃、ストレスが溜まるとよく走りに出ていた。それで今もよく三キロ米くらい走っている。運動として走ることを選ぶのは中学時代に陸上部だったことが関係していると思う。

 でもね、中学生の頃は走るのなんかちっとも好きじゃなかった。足遅いし、面白くないし。ではなぜ、今は走るのか。今は楽しいのか。ちがう。

 私は苦しいから走っている。

 肌の痒みを掻きむしることで痛みに塗りかえるように、私は苦しみから逃れるために自分の心肺機能や筋肉に負荷をかけている。肉体的な苦しみに向き合う間だけは、それ以外の苦しみが私の精神に影響する隙がなくなる。能動的な辛さで環境的な悩みから一時的に目を背けている。健康的な自傷行為と言えるかもしれない。

 というとあまりにネガティブな感じで、心配されちゃうかもしれないんですが、私はいうほど何かを思い詰めているわけではないので悪しからず。漠然と世を儚んでいるような、思春期のセンチメンタルを引きずっているだけです。
なぜ自分が走ることを求めるようになったのかということを考えて書いているんだけど、もう一つ理由があると思う。

 皆さんは自分という存在の輪郭を感じながら生活されていますでしょうか。どこからどこまでが「自分」なのかって普段意識しないけど、それってめちゃめちゃ変じゃない?

 自分の視点にある顔と肉体的に連続していればそこまでは自分だろうか。胎児はどうだろう。例えば義足や眼鏡は自分の身体の一部だろうか。では背負っているリュックや、乗る自転車、あるいは馬はどうか。考えるほどに曖昧な概念なんだなあと感じる。

 こんなに曖昧だから出身国とか、属する共同体のことを人間に褒められたり貶されたりしただけで感情が動かされてしまうことがあるんだろう。別にあんたの話じゃねーのに。あるいは自分のこともわからないのに他人についてああだこうだ言ってみたりね。

 走った方がいい。一人で。環境と自分の肉体の相互作用の中に、暫定的な自分の「身体の」輪郭がはっきりしてくる。自分の身体以上のものを自分だと思わないでいられる。そういうことが運動すると確かめられる気がする。

 付け加えておくと、私は精神が身体の中に収まっていると言っているわけではない。というかむしろ体の状態と心の状態が連動している必要はないと思う。この話はいいや。

 ともかく私は走る。自分の足が自分の身体を少しだけ前に運ぶ感覚。体の辛さの中に突っ込んでいって、それ以外のことが追いつけないはやさで走る。

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