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エッセイ1:粗忽長屋

前に書いたエッセイ(?)落語の粗忽長屋をテーマに書いたのでそのつもりで読んでもらいたいです。↓なんかYouTubeにあった粗忽長屋の動画
https://youtu.be/3VetNM3VOFw


 ええと、先日、ツイッターで見かけた話で、自分の生んだ子が旦那の母親に似ていて気色悪かった、てなものがありました。まあ、自分の体ん中から他人が「こんちは」つって出てきたら面食らうのは普通のことだけど、そうは思うんだけど、じゃあ逆に自分に似てたらホッとすんのか、つう話で。

 たぶんホッとするというより、ある種の納得感なのかなと思う。まま、僕は自分の人生で出産というのはできない訳だから、答え合わせも永久にできません。ざまあみろ。好き勝手言います。後で、やっぱ違ったわとか訂正する必要もないから。自由。

 んで、話を戻すと、自分から出てきた子供が自分に似てると納得するんじゃないかと思う。「ああ、こういうことか」と。有り体に言うと自分の生きている意味を感じるということ。何億年とか続いてきた生命というテーマ、バトンを、自分の次の世代に託せるというのは、本能的にも、社会的(こちらも本質は本能に起因すると思う)にも安心だろう。で、ここで何も疑いを感じない人はそのまま寝て起きてってミトコンドリアが擦り切れるまで繰り返してみてください。

 僕は、不安を覚えます。だってそのバトン渡した先に何もないから。次のバトンを受け取る人を見つけることが自分のゴールだと考えるのは怠惰、怠慢じゃありませんか。

 そもそも生き物の増殖って始まりは単体の無性生殖てか、自己複製、コピペみたいなもんだと思うんだけど、これは理にかなっている。偶然には起こり難い複雑な肉体の構成の私たちは、いずれ物理的に崩壊してしまう。それを食い止めたいなら自分のコピーを用意すればいいだけのことで。これなら話は簡単で、自分の死を遅延させているだけだ。ゴールとかじゃなくて自分という情報のバックアップだ。

 しかしここで、他人と混ぜて増殖したら、ウケるんじゃね?というマッドサイエンティストみたいな発想の有性生殖が始まる。これが、生物の生き残りの戦略の要に、なったんだとは思います。そうすれば多様性とか生まれやすくて、色々便利になっただろうねと。でも、自分の死を生殖によって延期するという意味は薄れてしまう。だって、生まれてくるのはクローンじゃなくて他者だから。

 じゃあ私たちは自己の保存でなくて何を綿々と受け継いできたのか。

 「生きている」ということだと僕は思う。生きているということしか根本的には伝えきれていない。そういう伝言ゲームだと思う。そうなっちゃうともうだいぶ分からなくなってくる。自分という個体、この肉体はそれ自体が生きながら同時に、生きていること、をこの世界に留めるためのメディアでしかないように思われる。それってどういうこと?この伝言ゲームって何の意味があるの?いくら生殖しても、死を免れないって、使い捨ての伝言メモ?おかしいと思います。しかしどんな億万長者も小作人も、必ず死ぬということになっている。平等。

 子供が自分に似ているほど、つまり自分のクローンに近いほど、この不安がごまかされるのではないか。これが自分の死んだ後もバックアップとして機能するのか、と納得できるのではないか。

 しかしその安心感には落とし穴があるかもしれない。だって親と同じ自分と自分と同じ子が存在するなら、上にいるのも下にいるのも確かに自分だが、では自分に挟まれている私は何者なのか?つって。

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