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よんのばいすう7-12 2021.7.12

蓮初めて開く

二十四節気七十二候で7月12日は小暑の次候の「蓮始開」。「はすはじめてひらく」と読みます。

梅雨の終わりを告げる頃、泥池の中で、緑の大きな葉の間から静かに鮮やかな花を開く様は、いにしえより極楽浄土に例えるほど美しいものです。

地元のFM局が主催するアナウンス講座に春から通い始めています。コロナ禍で合唱の練習もままならない中、この機会に滑舌の悪さやもごもごしゃべる癖を何とか治したいという動機から挑戦したのですが、受講者の皆さんは、わりとプロ志向💦
その熱さに感化されるように、3ヵ月間の基本コースで終わるつもりが、今のところ一度も休まず、7月からの上級コースにも進みました。

基本コースのカリキュラムに「朗読」の日があり、テキストに芥川龍之介の『蜘蛛の糸』が使われました。大昔、国語の授業で読んだりしたとは思いますが、じっくりと向き合ったのは初めてかもしれません。それまで、母音中心の発声や早口言葉など、面白さもそれなりの授業でしたが、その前の『外郎売』あたりから俄然面白くなっていたところで「声を出して読んでくるように」との宿題に、私もせっせと練習しました。

いざ読んでみると、出だしから物語の世界にどんどん引き込まれました。

「ある日のことでございます。お釈迦様は極楽の蓮池の縁を独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました」

お釈迦様は、一人の罪人、犍陀多が一匹の蜘蛛を助けたことに鑑み、地獄に落ちる前にもう一度チャンスを与えます。極楽よりするすると目の前に降りてくる細い蜘蛛の糸。犍陀多は糸をつかみ、極楽へとのぼっていきました。ところが、同じように極楽へ上りたいと糸にしがみつく他の罪人の姿が足の下に見えた時、犍陀多は彼らを蹴落とそうと口汚く叫びます。そのとたん、一度は好転した彼の運命はまた裏返しになってしまったのでした。お釈迦様はその一部始終を眺め、ゆっくりとまた蓮池の周りを歩き始めます。

ほんの短いこの物語に、必要なポイントがちりばめられています。言葉のキレ、抑揚、テンポ、セリフ。効果音や映像、オノマトペのようような派手な擬音語がなくても蓮池の美しい情景や、犍陀多の心情が手に取るようにわかります。こういうのを序破急というのでしょうか。さすがは芥川龍之介。まさに名文です。

せっかく蜘蛛の命を助けたのに、自分だけが助かりたいと、下から登ってくる他の罪人たちを蹴落とした犍陀多。いざとなると利己的になってしまう弱さは、どんなに科学が発展しても乗り越えられない人間の性。いつの世にも普遍的な課題です。というか、今ほど権力を持った者が利己主義に走っている社会もないような気がしています。今は切れるとは想像もしていないだろう蜘蛛の糸。そのうち誰かがチョキンと糸を切る日もそう遠くはない気がしますが…。

受講生は練習の成果をおのおの発表しましたが、『蜘蛛の糸』の世界観を声で表現するにはまだまだ至らず、私も間違いなく読むのが精いっぱいでした。最初の頃に比べると、声がクリアになってますねと言われ、自分でも滑舌が少しマシになっていることは感じていたので、褒められるとやっぱり嬉しいものです。あまり淡々としていても物足りない、かといって抑揚をつけすぎてもうるさい。この絶妙の匙加減が朗読の醍醐味ですね。先生のお手本やyoutubeでの朗読を聴くうちに、語りの楽しさや奥深さを感じたのも確かです。先生からはずいぶんか「、…朗読が好きです」と講師の先生にお話ししたら、「それなら『高瀬舟』を読んでみて」と言われ、後日早速『高瀬舟』を声に出して読んでみましたが、あまりにも名作で読みながら感動してうるうる。客観的に語りに徹するにはまだまだ修行が足りないといえそうです。『声に出して読みたい日本語』という本がヒットしたことがありますが、日本語は文字として読んでも声に出しても本当に美しいことを、朗読をやってみてあらためて感じました。

蓮は7月~9月が開花時期。朝に花を開いても、昼には閉じてしまいます。花言葉は「清らかな心」。泥水の中で育ちながら、美しい花を咲かせる姿は、慈悲の象徴。コロナ禍の世界において、これほど似合う花もないのかもしれません。


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