計算されない未来

 20代の新人さんを教える担当になり、早3か月目。10歳と離れていないのだけれども、それでも生きてきた時代が違うのだな・・・と思うことが度々ある。

 一つには「情報」に対する認識である。

 自分の幼い頃には、すでに簡単な電子辞書はあったが、それでも紙の辞書の方が親しみがあった。10代、携帯、パソコン、インターネットと、キーボードを打つ授業なども現れたが、まだネット上の情報も豊富ではなかった。情報というのは、知っている人に聴く、専門家の本を読む、時には出かけて行って入手するような、お金と時間をかけて得るものだ、という感覚があった。

「知る」には対価が伴う、それは、「知らない」が常態だから、自分の変化のための対価だと思えた。けれど今では、望まなくとも、メールや電子掲示板にはあふれんばかりの宣伝や情報が流れるし、ネット環境さえあれば、ある程度の「物知り」にもなることができる。

 手を伸ばせばいつでも齧ることのできる果実は、そのうち、ありがたいとは思わなくなる。まして食べきれないほど、毎瞬間、増殖するようなものだったなら、どうだろう。まず、少し色がくすんでいるとか、匂いが弱いとか、そういうマイナスが付くものから先に、ゴミ箱に放り込んでいくかもしれない。

 と、比喩ばかりになってしまったが、そういう果実の扱いがすなわち、最近の「情報」に対する認識になりつつある。要るか要らないか、小さな子どもであったって、立派に判断する。一消費者として、自身の選択基準を最大活用し、情報の取捨選択を行う。これが日々の日課となっているのだ。


 そして、そういう感覚でいざ、会社のデスクに就いて、流れてくるメールに目を通すとする。新人さんの立場からスタートすると、来るメールなどはしっかりと読んで、仕事を憶えようとしてくれるはず・・・と期待したいのだが、彼、彼女たちはまず、「読まない」のである。

 読むメールの基準を尋ねると、「なんとなく、内容が予想できるものだけ」と回答される。『おっと・・・これからですよ・・・』と、内心驚きである。どうやら目に入れる情報、さらには、自分の頭に入れて内容を検分する新規情報については、かなり高いハードルがあり、それを超えて、「会社のメールで流れてくるものはすべて読んで、分からないものは尋ねる」という指示自体が、とても目新しいものらしい。


 これと関連しているのだろうけれど、よく「そこそこのレベルで仕事をこなすだけ」の若者を、どう育てていいか分からない、という声を聞く。

 向上心が無いわけでもないし、話をすれば、明るくしっかりともしている。なのになぜ・・・という問いに対して、彼らの普段の言動を分析してみると、「もっとも経済的な行動」を選択している故なのである。

 ある仕事を任される。そのときに、求められる結果を教えてもらう。そうすればあとは、その結果を導き出すための、最もシンプルな解を求めるだけ、という考え方である。

 同じことを繰り返すのは構わない。そこは仕事だとわかっているので、耐えもする。より上手にこなす方法を見つけることには、関心があるし、情報交換もする。でもそれ以外は予定していないので、ということらしい。

 確かに合理的である。

 ただそう・・・同じ仕事の担当であっても、新人で求められるレベルと、3年目以降で求められるレベルは異なる。つまり結果も、そこに至る過程も、すべて違うものが求められるのである。

 さらに恐ろしいのは、新人レベルの要求は誰かが教えてくれるが、それ以上のレベルは、自分で設定しないといけない。自分で探し、求めないといけないのである。ある意味自由だけれど、どういう要求を自分に課し、実行できるかというのは、大いに自分の経験値や能力に依るもので、そこでは「何をどこまで知っているか」というのが、重要なカギとなる。

 今の自分が「予定していない」というのは、それが必要なことや、重要なことかもしれない、という可能性自体を知らないから、とも考えられる。

「無知の知」を始まりとして、自分の関心の外にも、意外な可能性があることを、「予定」してみてもいいかもしれない。

 

 教える側も、そんなこんなで日々、目を見開かされる思いである。今日は、予想以上に長く綴ってしまった。明日に備えよう。

 


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