読みやすい文章

万城目学(まきめまなぶ)さんのエッセーを読んでいると、

読みやすい文章が書けるようになってきたら、文章が上達した証だという意見があった。

そうなのかぁと思うと同時に、確かに今は、どの書店で立ち読みをしても、ものすごく読みやすい本ばかりが並んでいると、納得する。

単に子ども時代の記憶と比べて、「そりゃぁ大人の頭で読めば違うだろう」というのでもなく、出版年で遡るほど、その違いが歴然としている。

何年が境なのか、つきとめられてはいない。

ただ、1970年代の本は難しく、1980年代は、なんとなく親近感のある文体が登場し始め、1990年代となると、ふわふわした内容のものが増えた。そういう感想を持っている。写真集、小説から論文に至るまでオールジャンル、年代で並べて比較する場があれば、さぞ面白いだろうと思う。

古典的名作とされているものを除いて、毎日陳列棚の本が入れ替わる書店では、目前の光景一つで、数十年単位の変化を感じることは難しい。図書館でも、新旧入り混じった広大な書棚を前に、列の端から順に本を引き抜いて読むような変わり者ではない限り、そうしたロマンを味わう人は少ないかもしれない。

話をはじめに戻すと、自分はどちらかというと、読みにくい本が好きなのである。いや、支離滅裂な、内容的に破綻した文章が好きとかいうことではなく、「読みやすさ」という標準化の世論に屈しないような、奥行きのある、癖のある文章に、たとえようもなく魅力を感じてしまう。

今は、一人の書いたものを、よりたくさんの人に読んでもらうための「わかりやすさ」が必要不可欠とされる。印刷物、書籍という形でなくとも、それが可能な時代になったから、ますますこの価値観は、普遍的なものとなりつつある。

でも、どうなのだろう。

書かれたものを読んで、「その場でわかってしまえる」ものばかりというのは、本当に面白いのだろうか。

内容の半分以上が分からなくて考え込んだり、手掛かりの言葉の意味を調べたりする。それでも悩んだまま時が経ち、ふとした瞬間に、「あれはああいう意味だったのか」と思い至るような、そういう暮らしがあってもいい。

文章は磨いていきたいが、分かりやすい文章だけに囲まれて、自分もそうしたものだけを目指して、書いて行きたいわけじゃない。

と、そんなひねくれたことを言ってみる自分は、上のエッセーを読んで、万城目さんのファンになってしまった。ふわんとしているようで堅実な、けれどもご自身で言われるように、不器用なだけのような・・・世間一般に辛辣な意見も抱きつつも、エンターテイナーとしての使命を全うする覚悟もある方のように思えた。

人や物事の多面性は、行間から読み取るものなのだろうか。

わかりやすい文章の合間とその奥に、ぎゅっと謎や歴史をつめこむ方法もある。

これからまた、どんな風に文章は変わっていくのだろう。

ゆったりと眺めていたい。


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