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自叙伝「#車いすの暴れん坊」#1   誕生、神童と呼ばれた幼稚園時代

1961年5月14日、父またしろう、母ひろ子の長男として俺は生まれた。

幼稚園の頃はご多分に洩れず神童と呼ばれていた。園長からも将来この子は大物になるよと太鼓判を押されていたらしい。

カトリック系の幼稚園だったのだが、演劇でもイエス・キリストの役を演じた。まさに神、神童だったというわけだ。当然のことながら、字も読めなかったのだが、それをお袋に言葉で教えてもらって、暗記してセリフを覚えた。卒園式の答辞もお袋からの聞き伝えと、それをテープレコーダーに録音して覚えて発表したように記憶している。

結構な腕白で、いつも泥だんご遊びでボロボロになって帰る毎日だった。小学校でもさらに腕白に拍車をかけて、神童と呼ばれたのが嘘のように勉強をしなくなり、それに生意気さも加勢したものだから、しょっちゅうイジメにもあっていた。

プロレスごっこと称して、数人に押さえつけられた上、下駄箱から飛び降りられて顔に上靴の跡がついたりしたのを覚えている。

ただ一方的にやられっぱなしというわけでもなかった。負けず嫌いだった俺は、無謀なことにもチャレンジした。

小学校2年か3年くらいのとき、半そで半ズボンで1年間通して学校に行くというのを2年間続けたことがある。結局、痩せ我慢なんだが、とにかくやり遂げた。

また、水泳を習っている将来のオリンピック候補といわれる奴がいて、そいつが確か1キロか2キロを泳げたと思うが、俺も長くなら泳げると言って、高々200メートルではあったが泳ぎ切ったこともあった。

もちろん速いわけでも格好いいわけでもなく、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、色々な泳ぎを駆使して、泳ぎきった。今でも覚えているということは、小学生ながらに半端な達成感ではなかったのだろう。

それと、新聞配達を小学校3年から6年まで3年間続けた。自転車で団地を配るのだが、エレベーターのない団地で4階まで上がって降りてくる。西日本新聞で150部ほど配っていた。目的は天体望遠鏡の購入だった。

中学生になって、丁度やんちゃを始めた頃、あるグループと衝突になった。そのグループはサッカー部、バスケット部、バレー部などが集まった。10数人のグループだった。俺らがよくつるんで遊んでいたメンバーが4、5人で、その日はたまたまふたりで帰っているときにぶつかった。

そのメンバーの友達の従兄の悪口を言ったとか言わないとかで呼び出しを食らった。空き地に呼び出されて、俺の友達は別のひとりとタイマン、俺も別のひとりとタイマンをしたが、全然歯が立たず、一方的にやられた。悔しかった。そのときに本当に強くなりたいと思った。

しかし、中学2年になって転機が訪れた。元々、ゲームセンターに遊びに行くのが好きだったのだが、天神や中洲のゲームセンターに入り浸って、競馬ゲームやコインゲーム、ピンボールに明け暮れる毎日で、その頃、煙草も覚えた。頭はポマードを塗ってリーゼントにした。カールアイロンの鏝(こて)でパーマ風にしてツヤ付けて(格好つけて)遊んでいた。

川端通りを便所下駄と呼ばれる木の下駄をカランコロンいわせて、中学生のくせに粋がって気持ち良く風を切っていた。

そんなとき、福岡で一番悪い中学の連中とも知り合った。小学校、中学校の最初のときの負け戦の反動もあったのだろう。「強い自分」というものに憧れて、アウトローの世界にのめり込んでいったんだと思う。

決して、腕力が強いわけではなく、喧嘩はほとんど気合いと根性だった。そうして、高校生になっていったわけだ。

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ユニバーサル別府

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