自叙伝「#車いすの暴れん坊」#12 自衛隊入隊
工業高校に進んだのは、小学校、中学校と勉強をしなかったので、まあ選ぶ選択肢がそんなになかったというのと、一番、就職がしやすいのが工業だという中学のときの教師の勧めもあったからだ。
ところが小学校からの夢が、社長になりたいという夢だった。なぜかというと、俺 のお袋の親父、まあお爺さんという人が一代で会社を築いた人で、4人の息子全員に 会社を渡していた。
もちろんすべての会社が羽振りが良いというわけではなかったが、子供の頃は、里帰りすると、お年玉もたくさんくれたし、いい家に住んでいたし、い い車にも乗っていた。
俺もいつか社長になろうと思わせてくれるには十分な生活振り だった。それなのに工業高校に入るものだから、3年間、工業志向の勉強をしたにも関わらず、身に付けたのはテキヤで学んだ経験と明け暮れた喧嘩で付いた度胸くらいのもの。しかし、やっぱり気持ちは商業志向。
そう、商売がしたい。たまらなく商売がしたいのだ。それで紳士服のセールスの会社とか、コカコーラとかいろんな会社の営業を受けたのだが、まあ頭も悪かったし、工業高校も商業高校もその違いのなんたるかも知らないような奴が受かるはずもなく全滅で、結局のところ滑り止めで受けた自衛隊に行くことになった。
あの頃、自衛隊の広報官が言うには、自衛隊に入ればテキスト代6千円だけで大型免許が取れるとのことだった。それが営業トークだったとも知らず、まんまと口車に乗せられて、それなら自衛隊に入って2年くらいいて、その大型免許を持ってから他に就職してもいいなと軽い気持ちで入隊した。
正式には福岡県春日市第四師団十九連隊、そこの中で新隊員教育の前期と後期を受けることになった。
けれど入ってみると、免許は勤続6年くらいないと取れないという。自衛隊に入って来る奴というのは、あちこちでやんちゃしていて行くとこがない奴や、自衛隊で上に上がっていこうとする奴、後はどこも行くところがないような奴、そういう奴らで構成されていた。
今はなかなか難しいが、俺らの頃はある意味、警察沙汰を起こしてなければ、入れるようなところだった。
新隊員教育の頃は、ソフトボールをやったり、マラソンをやったり、体力をつけることが基本となっていたが、こんなことして給料をもらっていいのかと思うほど、新鮮で楽しかった。
朝の6時に起きて戦闘服を着て、宿舎の前に並び点呼。これも起床のラッパが鳴ってから起きるまでの時間というのは、そんなに時間はない。それからマラソンをし、体力を付けるための訓練や作業にとりかかる。
夕方は先輩の半長靴(戦闘ブーツ)を磨かされる。もう年齢なんて関係ない、完全階級社会。同じ階級であれば一日でも早く入隊した者が勝ち、そういう世界だ。
その中で新隊員教育が半年、前 半と後半で3カ月ずつあって、新隊員教育が終わるまでに10名くらい辞めたり逃げて帰ったりした。
まだあの頃は国会議員の力が強かったり、親父が自衛官とか、コネがしっかり通る時代だった。俺らが同じ高校の同級生とか、グループの仲間とかで10人くらい入隊したけど、そのうちのひとりは親父が自衛官で輸送隊、もうひとりも親父が自衛官で戦車大隊、もうひとりが国会議員の知り合いがいて偵察部隊、この3人だけがこういった特殊部隊に入れて、後は小火器部隊(小銃歩兵)であるとか、施設部隊であるとか、普通の部隊の配属となった。
輸送隊とか戦車大隊とか偵察隊とかは早い時期から、車 の免許が新隊員後半で取れたけれど、他の一般の職務の人間はやっぱり6年くらいい ないと免許は取れなかった。
自衛隊が面白かったのは、あの頃の時代背景もあったのだろうけど、学生服で試験 を受けに行っているのに、教官からお前らの中で煙草を吸う奴はこれで吸えといって、煙缶と書かれた赤い缶々に水が入っていて、そこで吸うように言われた。
高校生で制服を着て試験を受けに来ているにも関わらずだ。まあそういう時代だったんだろう。
それで自衛隊に配属になったら煙草を吸っても酒を飲んでもなにも言われない。今はそんなことはないと思うが、あの頃はそういう時代だった。やんちゃな連中がいっぱい入っているので、喧嘩とかもいろいろあった。
自衛隊の中というのは、街の縮図のようなもので、とにかくなんでも揃っている。床屋も喫茶店も食堂も、ちょっとしたスーパーみたいなPXといって、洋服からジュース菓子までいろんな買い物ができるところ、ビリヤード場もあった。
自衛隊の規則の中で、有事や災害派遣を考慮して、3分の1はいつでも動ける態勢を整えておかないといけないので、基本的には駐屯地の中に3分の1は残っていることになる。
そこで外出できない隊員が余暇を楽しむ方法として、隊内クラブといって、酒を飲む居酒屋みたいなところもあり、そこはツケでも酒が飲める。
先輩後輩入り乱れて飲んで、俺らは入ったばかりの新兵なので、本当は隅っこで小さくなって飲んでいるべきなんだが、18から上は25くらいの人間がいるわけで、酒を飲んで騒いでいれば、当然、先輩自衛官からドヤされたり、こなされたりする。
中でも俺は18で高校を卒業してすぐの入隊、ほとんどが年上だったけど、大学を卒業して入った連中というのは、19歳の人間が自分の上司、上官だったりするわけだ。
すると、年下から理不尽なことを言われたりとか、「こら新兵、お前ら10年早いんだ」とか、いわゆる罵声を浴びせられたりだとか、辛い思いをする。
隊内クラブで飲んでいて、喧嘩になりそうになったこともあった。先輩なので堪えに堪えて、その場はやり過ごした。
10人くらいで肩を落として宿舎の方に帰っていたとき、誰が言ったのか知らないけれど、ひとりが「回れ右」という掛け声をかけて、10人が10人全員で一糸乱れず隊内クラブに戻って、罵声を浴びせてくれた先輩たちをボコボコにした。
もちろん次の日に大目玉を食らうわけ だけど、まあそういう世界だった。その後も殴り合った 先輩たちとは自衛隊の中でときどき、顔を合わせること はあったが、それ以上にトラブルになることはなく済んだ。
福岡の春日の陸上自衛隊の中で教育を受けたのだが、駐屯地のまわりにいる角刈り、スポーツ刈りはヤクザか 自衛隊だった。よくヤクザと自衛官が喧嘩したりするこ ともあったようだ。
結構、市内のワル連中が集まっていて、昔、喧嘩していた暴走族や違う学校のワル連中、ヤクザの息子が根性を鍛えるために入っていたり、まあいろんな連中がいるわけで、それこそ殴られたりはしないが、なにかしでかすとほとんどが連帯責任。訓練と称する腕立て伏せや腹筋、そういうシゴキが待っている。
俺は 18で一番遊びたい盛り。最初のうちはなかなか外出もできないのだが、週に1回、2週間に1回くらいは外泊の機会があり、そのときは仲間と一緒に天神や自衛隊の近くの街に出て、パチンコに行ったり、キャバレーに行ったり、スナックに行ったり、焼鳥屋に行ったりして楽しんだ。
天神に行くときは、高校時代によく通ったディスコなどにも行った。門限が10時で外出するときは、10時までに帰らなくてはいけない。
天神でぎりぎりまで遊んで、列車で天神から、雑餉隈(ざっしょのくま)駅まで帰り、そこから自衛隊までダッシュで走って帰るということもよくあった。
春日の繁華街と自衛隊の間には、開かずの踏切というのがあり、それをかいくぐって 時の門限に帰るのはなかなか大変だった。
どんなにぐでんぐでんに酔っぱらおうと猛ダッシュで帰るのだ。なに せ1回でも遅刻をすれば、1カ月間外出禁止という、信じがたい罰が待っているからだ。
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