見出し画像

ファンレター未満の呪詛


苦しい、苦しい、悔しい。
ただの負け惜しみだが、どうしても書かずにはいられないから書く。
あと酔ってるから書く。

BLUE Hawaiiを読んだ。
どうしようもなく落ち込んでいる。

この方の本を初めて買ったのは大学3年の冬だった。

居酒屋バイト中、床に這いつくばって客のゲロを片付けていた時、高校の授業で触れた谷崎潤一郎の春琴抄という本のことを突然思い出した。
どんな話だったかあんまり覚えてないけれど、なんかこんな、今の私みたいなシーンがあった気がする。全然覚えてないけど。
一度思い出したらどんどん内容が気になってきて、とにかく読まなきゃ気が済まなくなってしまって、退勤後に閉店間際の本屋に滑り込んだ。

その後どういう理由でそうなったかはわからないけれど、私は春琴抄を買わずによくわからんエッセイ集を片手に家に帰った。

多分、本屋の棚から春琴抄を発見することができなくて、何も買わずに出て行くのも癪だったからなんとなく買ったのだと思う。
派手な装丁だったから目を引いたんだろう。


すべて忘れてしまうから、というタイトル。ハードカバーだから重いしデカいしムカつくな、と思いながら持ち帰った記憶だけある。
そのなんとなく精神で買った本に、これほど苦しめられるとは思ってなかった。

燃え殻さんの本は、思い出話に近い内容のものだった。
そもそもエッセイというものは日記とか思い出に近いものなのかもしれないけれど、小説ばかり読み耽っていた私にとっては大変新鮮で興味深いものだった。いつどこどこで誰々とこういう話をしたとか、この店がこうだったとか、それらの経験に基づいて記される一人の人間の過去や思想に釘付けになった。

何か大事件だとか、重大な問題だとかが書かれている訳ではない。どこにでもある普通の日常の、その更に片隅の、タイトル通りいつかすっかり忘れてしまいそうな記憶だけを集めた幻みたいな本。

私もやってみたかった。こんな本が作りたかった。

色々割愛するが、私はいわゆる文字書き志望の大学生だった。いつか本を出すんだ!みたいな意気込みのもと夢を見て、最終的に就活で打ちのめされて諦めた。
子供の頃はあけすけに夢を語ることが出来たが、成長するにつれ、食っていけるのか、そんなに簡単に評価されるのかなど、現実の厳しさは嫌でも目に触れる。稼げるかどうかわからないやりたいことの為に安定を捨てることは出来なかった。
どこにでもある若者の挫折だと思う。

燃え殻さんの本を読んでいると、苦しくなる。
燃え殻さんみたいな本を書きたかったからか、紡がれる取るに足らない日常が私の人生のどこかと繋がっている気がするからなのか、シンプルに共感しているだけなのかはわからない。
ただあの時の悔しくて虚しくてどうしようもない気持ちが当時のまま蘇ってきて辛くなる。

あの時諦めなければ、言い訳を並び立てて逃げたりしなければ、腹を据えて向き合えば、私もこういう本が作れたのだろうか。
燃え殻さんは諦めなかったのだろうか。諦めたくなったことはあるのだろうか。どうして続けられたのだろうか。どんな道のりでここまで来たんだろうか。そんなことばかり考える。

現実に生きることを選んだ私は、現在金融業界でOLをやっている。それなりの収入、それなりの生活、望んでいた安定を手に入れた今でも、ふとした拍子に文字書きになっていたはずの自分がチラつく。
もうあれほどの熱量はないけれど、それでもたまに筆を取る。何者かになろうとした自分を思いながら日々を綴る。あの時諦めなければと未だに思う。思いながら生きていく。

あの日買えなかった春琴抄は家の本棚に並んでいる。床に這いつくばってゲロを片付けるシーンはなかったけど、読む度に燃え殻さんのことを思い出す。あの本屋に行く度、人のゲロを片付ける度、ハードカバーの本を買う度に思い出す。
私はこの先も、燃え殻さんが本を出せば買ってしまうのだと思う。読み終えたら苦しくなって、やっぱり買わなきゃよかったと思いながら、それでも何度も読み返すのだと思う。BLUE Hawaiiも既に何度も読み返した。
苦しめられたとしても、結局ファンであることに変わりはないのだ。

いつか燃え殻さんに会えたら、聞いてみたいことが沢山ある。ラジオにお便りを送ることも考えたけど、直接話してみたい。
何かの偶然で、どこかの本屋や喫茶店や道端や電車の中で燃え殻さんを見かけたら、その時はファンだと言いたい。八つ当たりじみた妬み嫉みは隠して、あなたの生み出す文章が好きで、憧れてるんだと素直に伝えたい。

次はちゃんと感想が書けるように、今から練習しておこうと思う。以上!!!!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?