私的詩論 〜 サルトルとの邂逅を祝して

*このノートは、サルトルをかけらほどにも読んだことのない人間が「サルトルっぽいことを考えていた」ことを記すために書き留めたものです。

詩、というか私について

 一般的な人々が詩に触れるというのはどういう時だろうか。文芸書を日頃から読むという人は少ない。まして詩を読む人はなおさら。そしてふとしたことから詩の話題が出ると、決まってこういうことを言う人がいる。

「詩は何を言ってるのか分からない」
「何かを伝えようとするのに効率的じゃない」

 そうですか。ボクはその度にモヤモヤする。ボクは大学で文芸の勉強をしているので、「おいマジかよ」というほど詩を読まされるし文芸作品に対してどのように向き合うべきであるか徹底的に(教えられるというよりは)考えさせられる。そんな私が上記のような発言を大学一年生の頃からきき続け、やっと最近自分なりの「詩論」をこさえたので記していこうと思う。

詩は何を伝えているのか

 「詩(人)が何を言ってるのか分からない」という人は少なくはない。ただ、そうした言説には前提がある。それは、「詩はなにかを伝えようとしている」のであり、詩人はなにか伝えるべき事柄を言葉に託しているということだ。ボクはその前提を疑いたい。ボクがこれまで世界に数多とある詩のうちのほんの一握りの作品を読んだ経験を踏まえれば、詩はきっと何も伝えていないし、伝える気もない。こと現代詩(自由詩)においては顕著に感じる。

 勇壮な武人の活躍を詠んだ漢詩。無情を詠んだ俳句。愛をうたいあげるソネット。確かにそれらは数百年後を生きるボクたちの前に作者の描く世界を顕在化させる。だがそれは詩の全てではない。現代詩のほとんどは「目的」を持たない。何がしかの風景を読者の前に顕在化させるわけではない。そこでは、言葉そのものが目的化されている。何かを伝える道具としての言葉ではなく、言葉そのものが作者から自立し自分自身の世界を作り上げようとしている。それが詩だとボクは思う。

詩と小説は何が違うのかな

 詩は短く、小説は長い。これには日頃から文芸書を読まない人でも違和感を覚えるかも知れない。そうでないものなんて幾らでもあるから。多分昔であれば韻律やリズムが詩と小説を隔てる一つの壁の役割を果たしていたと思う。それが自由詩の登場で完全に崩れてしまった。それも決定的に。韻律もリズムも持たずダラダラと(時にはストーリーすら持って)書かれる詩が主流になってしまった。では何が詩と小説を隔てるのか。私は「言葉が目的化されたものが詩であり、言葉を媒介として作者の想念を読者に伝えるものが小説」であると思う。

加藤典洋『言語表現法講義』

 そんなことがだいたい頭ん中でまとまってきた折に読んだ本がこれだ。その中に「これは!」と思う文があった。

「言葉がモノだ、なんていうと、戸惑うかもしれませんが、以前、言葉をどう考えるか、ということが哲学で問題になったことがあるのです。その時、言葉はものを伝える道具だ、という考え方に対し、いや、言葉はそれ自体が目的であるようなモノなんだ、ということがたとえば、ジャン=ポール・サルトル などという人によって言われました。」
                  加藤典洋『言語表現法講義』150頁

 そしてそうした言葉の例として「詩」が挙げられており、これにはびっくりしてしまったわけです。

私はこれからサルトルを読む。
一つ先に進むために(あるいはまた振り出しに戻るために)。

記録に付き合ってくれたみなさん、ありがとう。