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「造語」って面白い

 料理に問われるべきは見た目よりも味である。食事の主旨は、見ることよりも食べることにあるからだ。だから、美味しければ、あとのそれ以外は何でもよい(限度はあるが)。 

 言葉についても同じだと思う。いかに拙くても、極論伝わればよいと思っている。だが、なかには目を惹きつつ、中身が伴ったものもちらほらあって、それが題の「造語」である。特に、歌詞のなかにそれを見つけたりする。 

 有名なものだと、井上陽水の「少年時代」の歌詞にある「風あざみ」。夏が過ぎ去った少年時代の虚無感を表現しているそうだが、そこまでいかなくとも過ぎゆく夏への名残惜しい様が何となく伝わってくる。

 他にも、中島みゆきの「まつりばやし」の歌詞「肩にまつわる夏の終わりの風のなか」の「肩にまつわる」は、残暑の湿って少し重たい風が、一度肩に当たってからゆっくりと後ろへ流れていく感じがする(まとわりつく的な)。電気グルーヴの「虹」のなかの「トリコじかけにする」は「虜にする」よりも惚れ込んだ者をガッチリ掴んで離さないといった印象を受ける。こんな感じで耳なじみは無くても、その意味が何となく読み取れたりする(解釈分かれるところもあろうが)。 

 欲を言えば、こんな言葉がもっと増えていいと思う。標準語は成立してから日が浅い。関西弁は、平安辺りから1000年以上使ってるわけで、野球のグローブでいうと型ができて、だいぶ使う人の手に馴染んでいる感じがあるが(それでもまだ変わると思うけど)、比べて標準語はできて200年も経っていない。まだまだ固くて使いづらいのである。 

 だから、標準語はドンドンいじくるべきで、「ぴえん」だの「チルい」だのバンバン新語をつくって、人々を困惑させたり驚嘆させればいいと思う。そのような試行錯誤はどうしても必要なプロセスなのである。 

 私も良い感じの造語とか新語を試しにつくってみたいなと思うが、大前提、言葉の主旨は伝えることにある。側からつくるのは本末転倒である。その副産物としてもし浮かんだら、人目につかないところでこっそり使ってみたい。 

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