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やっぱりサヨナラだけが人生

 人間は猿や豚と同じ哺乳類であり、ミミズやオケラと同じ動物で、木や雑草と同じ生き物である。

 生き物がこれだけ違っていてもすべからく共通して通る2つの通過点があって、それが「生まれること」と「死ぬこと」である。もう生まれてしまったからには、必ずやらねばならないことはあとは死ぬことだけなのだ。

 井伏鱒二(が厳密には訳をつけた)の「サヨナラだけが人生だ」という言葉がある。わけもなく心動かされる文章だが、これもつまりこの世に生を受けた人間に次に待つのは「サヨナラだけ」ということなのではないかと思う。ビートルズの「Hello,Goodbye」にも同じことが言えて、人生は実はHelloとGoodbyeしかないのである。もっというと人生を細かく見ていったときに色んなHelloとGoodbyeがある。友だちも恋人も、出会ってしまえばあとはさよならだけ。必ず通る道筋は「出会い」と「サヨナラ」だけで、出会ってしまえばあとは「サヨナラだけが恋」であり、「サヨナラだけが今日」なのである。その間の過程にこれ以外こうしなければならないなんてものは本来なにひとつとしてそこにはない。各自で勝手にありがたがるしか術がないである。

 こと人生についてもそうであって、この世に生まれたからには、あとはさよならだけ。いかように生きてもすべからく死ぬ。ただ、死というゴールはそれまでの多種多様な生き方を肯定する。生まれることに優劣のないように死は全く平等、というより個々の内に完結する、そこに優劣などつけようもないのである。

 死後に天国と地獄でもって優劣がつくと思われる方もいらっしゃるでしょうが、こんなものは道徳というか躾けを分かりやすくしたものに過ぎない。その証拠にウソをつくと地獄に行くとあるが、そこには相手を思いやってのウソも傷つけるためのウソも一緒くたではないか。自分が害を被るまいというための思惑がちらほら散見される点で現世に生きる人間の作り物にすぎない。

 死ぬことでもって人間は完結し、そこに優劣はないのである。そこには危険な魅力がある。現世で偉かった人もそうでない人も、金持ちも持ってない人も死はすべてを肯定して受け入れる。だから、私は絶対不老不死などなりたくない。人間はどこかゴールを念頭に生きているからである。

 じゃあ死ねばいいのかというと、そういうことでもなくて、生きて生きて悩みもがき苦しんだ結果でなければ、肯定の意味もないのである。こういう私も常識のうちに囚われている。しかし、なんでも出ていけばいいわけでもないのかもしれない。

 死ぬまでそんなことに耐えねばならないのは何とも窮屈だが、その意味が私のなかで本当に腑に落ちるまでとにかく必死に生きなければいけない。

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