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言葉に針をつける

 呪術廻戦に呪禁師とかいうズルい感じのやつがいる。簡単に言うと「動くな」といえば相手が動かなくなり、「死ね」というと死ぬという具合である。世話ないわ。 

 ここまで行かずとも、言葉には力がある。ときに人を癒し、人を傷つける。だが、この言葉やみくもに使って、だれしも同じ効果を得るわけではない。「動くな」を銃を構えた警察が言うのと、知らんおっさんが言うのとでは話が変わってくる。「愛してるよ」を真面目っぽい人が言うのと、めちゃくちゃ不倫してる奴が言うのと、言うのとでは話が違ってくるようにである。 

 つまり,自分の思うことを相手にそのまま伝えるためには、それを信じさせるための「雰囲気」なるものが必要なのだ。呪術廻戦では、呪禁師となんかよくわからない存在に信憑性がありそうなように、なにか信じさせる「材料」がセットとなる。それがまとう空気・つくる空気にあるのである。これが言葉を意味あるものに変える。ここまでいってようやく言葉は意味をなす。知らず知らずのうちにやっているか、自然とできた空気に合わせてあと乗りするのが、大半な気がする。私も書いておいて、意図してやったことはないと思う。

 同じ面白いことを言っても無名な芸人と面白いことがわかっている芸人とでは入りが違う。M-1という面白い大会という信じさせるものがあればこそ、それまで知らなかった芸人を面白く感じるわけである。 

 ここをいじくると様相がガラッと変わる。面白い芸人さんがいても、聞く気のない客だけの会場では「空気」が悪いから(聞く空気になっていないから)、面白いことを言っても多分うけない。だから、漫才でも落語でもまずは空気をつくることから始めたりする。 

 何年か前に野外ライブへ行ったときのこと、「KICKTHECANCREW」の後にさだまさしという並びのライブだった。ヒップホップのアゲアゲな曲の後に、さだまさしがスタスタ出てきて、二言三言喋ると空気がガラッと変わる。私はその会場の色が塗り替えられていくところを見た。これができるとできないとでは、かなり違うのだろうが、見て盗めるものでもなさそうである。 


 さて、この空気どうやって作るかである。その方法をひとつ書くなら、素性を隠すというのは、ひとつの手段である(ブログもそう)。ひとは見えないところに幻想を見るからである。そこに勝手に自分の頭の中で理想を描く(マスクなんかもそう)。しかし、これはいい方に転んだり悪い方に転んだりするので確実ではない。 

 蛇足だがもうひとつ、これを意図して悪いことに使う奴らがいる。言葉を意味から解くことも必要になる。生きるのは面倒くさい。こういうときは「人間は所詮動物で、どこまでいっても私と同じである」と何を見せられても、大した期待を持たないことである。こういう選択肢もときに必要ということである。

 話がごちゃごちゃになったが、もしかすると言葉が意味を持つときは、発言する側ばかりでなく、聞き手がそう思いたいから、そう信じ込むということの方が多いのではないか。と、これを自分で信じ込もうとする私も言葉の針にかかっているわけである。

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