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日記と珈琲_5月の裏側

からだの8割が「珈琲と映画と本」で出来ている医学生です。5月の裏側、日記をもとに書いたエッセイです。


今月は「夢の記録」が捗った。
包み隠さずに申し上げると、書いてある夢は全て実際に見てきたものである。どう書いているかと言うとこうだ。
朝起きて、「夢を見たな」と思って、目覚まし時計を止めた手で充電コードに繋がったスマホを手繰り寄せて、半目のままメモアプリに書き殴る。数秒後に寝落ちしても起きてまた書く。大まかな筋書きは散文的で、日記を一日寝かせる。翌朝になってそれを見返すと、なんだか変だ。夢を思い出せてしまう。推敲してから昼前にThreadsに投稿すると、今朝の夢と昨朝の夢のハイライトが同時に甦って気味悪くなる。
夢は、その日に見聞きした情報を整理する過程で起きる映像体験だと聞いたことがある。脳内の書架を情報が走り回って、そのうちの何かを拾って誇張したものだと。
誇張には誤解もつきものだ。たとえば、りんご農家の親戚の家に遊びに行って、手に収まらないおっきなりんごをもらって、その場で食べたとする。嬉しい感情に紐づけられた体験は映像として記録されているものだから、目を閉じて無意識の中に潜り込むともう一度その光景に出会えるはずだ。
ここからが面白い。その映像は、見ているのに見ていないのと同じ状態なのだ。普段の「物事を見てから解釈するまでの流れ」は、視覚入力、伝達、三段階の処理、情報統合と解釈の過程を経ている。目の前の現象をそのままに近い状態で受け止められる。ところが、無意識の「夢を見てから解釈するまでの流れ」は、レム睡眠下の前頭前野皮質の活動が抑制されるせいで、特に誤解された「解釈」が不条理なまま受け入れられてしまう。「直径20cmほどのりんごを頬張る映像」のはずが、「りんごは赤、赤は郵便ポスト」、「おっきなりんご、体より大きなりんご」と言葉の連綿で勝手な方向に論理が進み、あっという間に「拡大された郵便ポストを丸齧りしている映像」に挿げ替えられてしまうので、目が覚めて何が何だかさっぱりな感覚になるのが大方の夢の正体だろう。
詰まるところ、夢は現実の映像を凌駕する無意識の創作装置で、その映像は現実のぼくたちが思いつきにくい言葉のつながりで作られる。つまり、覚醒中は難しくても、夢の中なら、不思議のアリスのように飛躍した論理、不条理な世界観が用意されているので、奇抜なアイデアが湧く。それを「創作ノート」に書き付けるのにはうってつけなのだ。ちなみに、自分の体の一部が通常より大きく感じたり、見ているものを大きく感じたり、時間が実際よりも早く進んでゆくという奇妙な体験をしたら医者に掛かってほしい。それは、「不思議の国のアリス症候群」かもしれない。
意識的な言葉のつながりはいい子ちゃん過ぎるんだと思う。普通の言葉を飛び道具のような使い方をして組み立てる無意識状態の方が、なんとなく好きだ。いずれはいつでもそう書けるようになりたい。
元より、「この日記」は創作の同一線上に位置付けてきた。将来のためだ。作家になる目標を追う姿を日記を通して感じてもらいたくて書いている記録簿のようなものだが、日常の機微はノンフィクションなのに、夢の記録は日記の中で唯一のフィクションに当たる。
ずいぶん前の日記でも夢のことを記録してある。その日は、ちょうど読んでいた安部公房の『笑う月』で、彼が言及した夢の創作衝動について引用している。2023年12月以前の日記なので、noteでは初出になる。(引用してから気が付いた。先ほど無意識で「創作ノート」という言葉を使っていたのが、元を辿れば安部公房の文章にあったのかもしれない。しかも夢の記録法は、テープ・レコーダーがスマートフォンに変わったくらいで安部公房のとほとんど一緒だ。音声言語か文字言語のちょっとした違いはあるが。)

2023/11/25
夢。3歳くらいの子どもと湯船に浸っていた。銭湯の青タイル。無色透明のお湯。知らない子ども。すべすべの肌を抱え、熱くもないお湯をかけ、大きな声ではしゃいでいた。ゲームをしていた気がする。バッタ人間と遊ぶ奇妙なゲーム。奇妙、と目が覚めて、子どもなんていない世界に戻らされた。楽しかったが、どうしてあんな夢を見たんだろうか。
夢の論理は、不可解である。理解に苦しむ。だが、その論理を借りて創作に励むことが可能である。『笑う月』を著した安部公房は、睡眠と意識について解析を図り、こう記している。
“夢は意識されない補助エンジンなのかもしれない。すくなくとも意識化で書きつづっている創作ノートなのだろう。ただし夢というやつは、白昼の光にさらされたとたん、見るみる色あせ、変質しはじめる。もし有効に利用するつもりなら、新鮮なうちに料理しておくべきだ。そこでここ数年来、ぼくは枕元にテープ・レコーダーを常備して待つことにした。見た夢をその場で生け捕りにするためである。つまり肝心なのは、笑う月の身元や正体などではなく、笑う月そのものなのである。”
成田専蔵珈琲店 山口農園 抽出。

日記になるまでの夢はどう処理されていただろうか。一度整理する。
①「その日の映像」を見た無意識状態のぼくが、現象に近くも遠い言葉で情報を再統合した映像(夢)を見る
②(再現できているか不明だが)「夢の映像」を見た意識状態のぼくが、現象に近い(はずの)言葉で解釈し、再統合した情報を記録する
③「記録した情報(映像)」を翌日の意識状態のぼくが、推敲してThreadsに投稿する
ぼくの見た夢は、この3つの手順を踏んで読者の目に届いている。少なくとも3回は解釈しているので、本来の夢の映像から離れてしまっているかもしれない。特に①の言語化の正確性が怪しい。先に述べたように、無意識状態の言語化は素直でなく、事実から遠ざかる反面、普段なら思い付かない解釈をしてくれるので、想像の膨らみを与えてくれる。
日記に現実と非現実の境目が曖昧な文章を載せて、読者はどのように受け取っていただろうか。皆さんが読む頃にはさらに、
④「日記の映像」を意識状態のあなたが、解釈して映像にする
の過程が挿入されているので、どのように再現されているのかとても気になる。それをぼくに伝えてもらったところで、
⑤「あなたの解釈した映像」を聞いた意識状態のぼくが、解釈して映像にする
が挟まるのだとしたら、②の頃の純粋な記録からどれほど遠くなってしまうのだろうか。一つの事実が、人によって解釈が変わっていく様も一種の創作だ。黒澤明監督の『羅生門』で描かれていたのを思い出す。
最後に、5月の日記の中から好きな夢を引用して、今月のエッセイを閉じたい。

05/20
夢、何かの誘惑を振り払い、後輩が受付をする寺のイベントに行く。入場料が定まっていないらしく、机上に並んだ500円玉を見て、財布から500円玉を取ってパチンと置いた。雑木林の中に位置する中程度に高い建築群に驚く。暗い寺院の中に入り、見学コースを歩むと舞台裏の2階に父の職場があった。現実のとは違う。回収したばかりの機体、たぶん国の戦闘機のボディから表層の板をべりべり剥がしていた。それに弟も加わる。人が足りてると思って外に行く。スーパーの入り口のあたりを散歩していた。父も合流した。施設の情報を交えながら、持参した杖の紹介もする。武力衝突を避ける為、ダンスで決着する地域、舞らしい。それを見守っているとふくよかな男児がおいかけてきた。店内を走り回る。ラックの間をすり抜けて、八艘飛びのごとくレーンを越えていると、外から怒号が聞こえてきた。吐瀉物と一緒に二人の男性が寝転がっていた。一人は知っているがもう一人は知らず「どうして隆佑みたいに」で、目が覚めた。
9時、弘大病院での実習が始まった。久しぶりの空気感に一時圧倒されるも、馴染みの先生に一言挨拶を交わして、緊張を解いて内視鏡。

「日記と珈琲_5月」5/20より
無意識の創作衝動を手繰り寄せる。

6月のエッセイは、7月になれば。

プロフィール
米谷隆佑 | Yoneya Ryusuke

津軽の医学生. 98年生. 2021年 ACLのバリスタ資格を取得.
影響を受けた人物: 日記は武田百合子, 作家性は安部公房, 詩性はヘルマンヘッセ, 哲学は鷲田清一.
カメラ: RICOH GRⅢ, iPhone XR

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