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Y:32 育てた花より、育った雑草-名もない能力未満の集合

歳を重ねるにつれて、ようやく自分が人より少しうまくできるのかもしれないということがわかってくる。というより、一言で表せるような長所(例えば、リーダーシップがある)だと、早く気づきやすいのだろうけど、一言で言えないとか、長所らしい長所でもない場合、人はそれに気づくのが遅れるだろう。でも、気づいていないだけで、きっと、誰もが名前もない、長所とも言いにくい能力を持っている気がする。


ある時から、もしや、これが私の能力なのかもと思っているのは

周囲から曲者と思われているような好き嫌いの激しい人に、嫌われず(まぁまぁ好かれつつ)、その人と周囲の人たちを細い糸でつなぐことができる。

という能力だ(笑)能力と言っていいのかもわからないし、これを別に簡単にできるわけでもない。私自身は胃を痛くしながら、結果的にそうなっているだけなのだ(笑)全く強みには思えないし、一言で言えるようなものでもないのだけど、私のこの感じが、今の私を生き延びさせてくれているような気もするのだ。

自分で得意と思っていて、かつ出す結果もすばらしいということが所謂、強みだろうが、得意と思ってなくても、なんなら不得意と思ってても、人よりそれがうまくできるなら、それも強みだろう。

私はこの一言で言えない強み(網掛け部分)を、意図して鍛えようとしたことはないし、誰かに、これが強くなるように育てられたり、教えられたりしたわけでもない。

何で、こんなことができるようになったか理由を考えてみると、もともと、そういう素質があったというわけでもない。素質があるなら、胃は痛くならない。

どうも、この能力は、私が度重なる転校やコミュニティを2,3年おきに移る生活を20年以上してきた中で、私が環境に最適化するために身についた能力なんじゃないかということに気がついた。

育てるつもりもないのに、育った能力。これ、おもしろい!

普通、私たちは大なり小なり目標があって、それに向けて学び、それで得たものを使って、現在を快適にする(楽しくする)とか、可能性を広げるとかしていくのだと思う。

つまり、収穫したい果実があって、そのためにタネを植えて、育てる。大きく言えば、教育こそ、そういうもので、何か目指すものがあって、そこに向かう過程が教育になる。逆に言えば、目指すものがなければ、教育とは言いにくいだろう。ゴールを決めなければ、スタートできないし、コースも作れない。

でも、どうなのだろう。少し考えてみてほしい。今の自分を自分たらしめているのが、親や先生や自分が植えたタネの結果なのだろうか。

もちろん、小さいころから野球選手になりたくて、それで練習して、プロ野球選手になりましたという人もいる。しかし、実際は多くの人が、当初の育てたかった意図とは別の何か、何かの集合によって、現在の自分が構成されてはいないだろうか。意識していない部分を原因として考えるのは難しいだろうが。

私たちは、あたかも教育の成果で自分が構成されているような感覚を持っているのだけど、それは、けっこう限定的でかつ言語化しやすいものだけではないだろうか。実は私たちを構成する大部分は、言語化できない(名づけられていない)能力未満の集合で構成されているんじゃないか、そんなことを思いついた。

植木鉢に種を植えて植物を育てようと思ったら、周りからいろいろな雑草が生えてきたような経験はないだろうか。名もない能力というのは、まさにこのような雑草のことだ。価値づけされていない、かつそれを育てるために、何かをしてきたわけではないもの、だから発育良好ではないかもしれない(能力未満)。

私の能力と言うのも、まさにこれで、独特の環境の中で意図せず育った雑草の集合体なのだろうと。だけど、これが植木鉢の中で存在感を発揮していて、生物としてもそれなりの強さを持っている

最後に急に教師の視点になるのだけど、ついつい私たちは花や果実を育てようとする。それが目標だから当然だ。しかし、それがうまくいかない時もある。そう見えると、自分の方法が間違っているとか、学生の評価を低くしがちだ。だけど、種の発芽だけでなく、植木鉢全体を眺められる視点も必要だと思う。

意外と強い雑草が生えてるかもしれないし、小さいけど、きれいな花が咲いたりする雑草もある。それが集まれば、見栄えもするだろう。

私が学生なら、そういうことを気づかせてくれる教師というのは、とてもありがたいなと思う。

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