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【読書メモ】責任という虚構

2023.10.15



1.読もうと思ったきっかけ

最近、某事務所の問題で「メディアの責任」という言葉をよく聞く。昔から、大きめの社会問題があると、最終的に「メディアの責任」という人がいたり、報道に携わる人が“自戒をこめて”「メディアの責任」と言ったりする。なんとなく、責任の所在がわかったような気になるが、実際、どこの誰に責任があるのかよくわからないし、誰か、何かが責任をとっているかもよくわからない。そもそもメディアの責任を追いかけていくと、それを見ている自分にもあるんじゃないかと思えたりもする。
そんなことをつぶやいた時、読むのを薦めていただいた。

2.全体の感想

「責任」というあまりにも当たり前で、存在すら疑ってこなかった社会の基礎となるような概念を、「虚構」という強めの言葉で、ゆさぶられた。そもそも「責任」が何のためにあるのかなど考えてこなかった。自分のすごく簡単な言葉で表すと、「ネガティブな出来事への収まりをつける考え方」が「責任」なのだと思った。人々の怒りや悲しみをどのように分解するか、その時に出てきたのが「責任」という概念で、丁寧に検証すると、責任という考え方が、存在は決して明確なものではなく、危うく、何なら暴力的であることがわかる。
 冒頭の事務所の問題は、とりあえず、本人に責任があるとは思うが、本人がいない、じゃあどうするというところで、責任が色んなところにたらい回しにされているように見える。しかし、その「責任」とは何なのか。もしなかったとして、残された負の感情をどのように分解、消化すればいいのか、簡単には答えが見つからない。

3.ChatGPTによる読書メモの200字要約

初の試みで、4.私の読書メモ(5000字)をChatGPTに200字程度に要約させてみました(笑)人間ではできないな。

『責任という虚構』は、責任の概念が社会で根拠が不明確であることを論じる書籍です。著者は責任を支える根拠が不在であることを指摘し、責任が社会規範から派生する一方で、外部要因によって行動が影響を受ける現実も存在すると強調します。さらに、責任と罰の関係についても議論し、責任者の選定が事実に基づかないことを強調します。この本は、責任や道徳についての伝統的な考え方に疑問を投げかけ、これらの概念が社会でどのように機能するかについての深い考察を提供しています。

4. 読書メモ

はじめに

  • 責任を負うという考えは近代市民社会の根本を支える

  • 社会規範からの逸脱が生じた場合、その出来事を起こした張本人を確定し、その者に責任能力が認められる限り、懲罰を与える。

  • 人間が自由な存在であり、自らの行為を主体的に選び取るという了解がそこにある

  • 他方、人間が自律的な存在ではなく常に他者や社会環境から影響を受けている事実を社会科学は実証する。行動が社会環境に左右されるなら、責任を負うという根拠はどこにあるのだろうか。

  • 各人の性格が行動の一因をなす事実を持ち出しても、この問題は解決できない。確かに人間の行動は外界の要因だけでは決定されない。しかし、人格という内的要因も元を正せば、親から受けた遺伝形質に家庭教育や学校などの社会影響が作用して形成される。我々は結局、外来要素の沈殿物にすぎない。

  • 責任と呼ばれる社会現象は何を意味するのか、これが本書の課題

序章

  • 意識は行動の原因ではなく、行動を正当化する機能を担う。意識が行動を決定するのではなく、行動が意識を形作るのだ。

  • 行為・判断が形成される過程は本人も知ることができない。自分自身で意思決定を行い、その結果として行為を選び取ると我々は信じる。だが、人間は理性的動物ではなく合理化する動物なのである。

  • 一般に社会心理学は社会が個人に与える影響と同時に、個人心理が社会形成に貢献する往復のプロセスを研究する。だが、外因と内因に分ける発想自体がすでに誤りだ。

  • 主観と客観、あるいは個人と社会の相互作用として人間を把握する発想自体を疑う必要がある。

第1章 ホロコースト再考

  • 分業体制は近代社会と切っても切り離せない。分業のおかげで飛躍的な経済発展を見た。しかし集団行為に組み込まれる人々は、長い流れ作業の後に生ずる結果に自分自身も加担する感覚が薄れてしまう。

  • マルクス主義的に下部構造が社会動向を規定すると理解しようが、ヒルバーグやブラウニングのように組織形態や社会状況が人間行動に影響を与えると捉えようが、どちらにせよ人間行動が外部条件の強い規定を受けると考えると困った自体が生じる。当時のドイツのような状況で上から命令されさえすれば誰でも殺害に加担してしまうならば、どうして我々はナチスの責任を問えるのか。

  • 我々がここに直面する困難は、原因追及という行為自体が必然的に孕む問題であり、歴史学・社会学・心理学など、どのアプローチを採用してもつきまとう問題だ。

第2章 死刑と責任転嫁

  • 2007年初秋、鳩山邦夫法務大臣の発言が物議を醸し出した。死刑執行命令書への法務大臣署名を廃止し、乱数表を利用して執行を自動化する提案だ。しかしトランプのババ抜きのように、責任転嫁の仕組みは最後にツケが必ず誰かに回ってくる。乱数を発生させるためにコンピュータを操作するのは誰か。

  • 偶然と<外部>は違う。死刑執行の最終責任を引き受ける<外部>は主体として表象されなければ機能しない。

  • 前近代において神や大自然が意味していた<外部>と、偶然は似て非なる存在である。人間が意図的に操作できない点は同じだ。だが、責任を最終的に引き受ける<外部>は根拠あるいは主体として我々の前に現れなければならない。

第3章 冤罪の必然性

  • 犯罪捜査・起訴・判決は集団行為だ。警察官・検察官・裁判官の違法意識に訴えかけたり、彼らの不誠実をなじるだけでは冤罪問題の本質を見失う。

  • 工場や交通機関で事故が起きると、捜査ミスなど人的原因によるのか、機器や設備の構造的欠陥が事故原因なのか問われる。しかしこの発想自体がすでに誤りだ。車の運転でも工場や医療現場でも、鉄道や航空機の運行でも実は人間は頻繁にミスを犯す。しかしそのミスが事故を生む確率が低いだけだ。

  • 航空機の製作や運航にはシステム的発想が採られ、ミスが少々起きても事故に繋がらない機構が何重にも用意されている。犯罪捜査から判決に至る過程で生じうる過ちを防ぐ工夫の杜撰さとは比べものにならない。

  • 個人の意思を超えた次元で集団行為が自己運動を展開する。意図的に為す逸脱行為・事件としてでなく、ある条件を満たせば必ず生じる事故として冤罪を把握し直す必要がある。冤罪が生じる原因は、より根源的に罪および責任の本質と関わりを持つ。

第4章 責任という虚構

  • 人間は主体的存在であり、自ら選んだ行為に責任を負わねばならない。この考えが近代世界を貫く。

  • 自由意志が存在し、脳・身体から独立するのなら、身体を拘束したり体罰を与えて人格を矯正する発想自体が意味を失う。したがって、心身二元論を採って意志の自由を説いても責任の構造は解明できない。

  • 行為生成過程のどの時点に注目しても因果関係では責任現象を捉えられない。責任を特定する上で適切な原因とそうでない原因の区別も客観的観点からはできない。

  • ギャレン・ストーロソンが指摘するように責任概念と因果関係は次の論理矛盾を抱えるため 根本的に相容れない

    • (1)自らの行為に対して 道徳的責任を負うのは 行為者自身が当該行為の原因をなす場合である

    • (2)だが どんな存在も自らの原因ではありえない

    • (3)従ってどんな存在も責任を負えない

  • 因果律を元に責任を定立する近代的発想で意志が問題になるのは意志が行為の原因と認められる限りでのことであり 行為と直接関係ない 心理状態ならば 意志について議論する意味がそもそも失われる。

  • 意志とは、ある身体運動を出来事ではなく行為だとする判断そのものだ。人間の存在のあり方を理解する形式が意志と呼ばれるのだ。人間は自由な存在だという社会規範がそこに表明されている。

  • 自由とは因果律に縛られない状態ではなく、自分の望む通りに行動できる感覚であり、強制力を感じないという意味に他ならない。

  • 我々は常に外界から影響を受けながら判断し行動する。しかし条件の違いによって、自分で決めたと感じる場合もあれば、強制されたと感じる場合もある。主観的感覚が自由という言葉の内容なのである。

  • 近代的道徳観や 刑法理念においては 自由意志のもとになされた行為だから責任を負うと考えられているが この出発点にすでに誤りがある。 実は自由と責任の関係は論理が逆立ちしている。自由だから責任が発生するのではない 逆に我々は責任者を見つけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから 行為者を自由だと社会が宣言するのである。自由は責任のための必要条件ではなく逆に、 因果論で責任概念を定立する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない 。

第5章 責任の正体

  • 常識的に考えると犯罪発生から刑罰までは、(1)犯罪事件の発生、(2)その原因たる行為者のつまり犯人を探し出す、(3)犯人の責任を判断して、(4)罰を与えるという順序に従う。したがって責任と罰は二つの別概念をなす。

  • しかしポール・フォーコネは異なる解釈を提示する。(中略)犯罪自体を無に帰すことは不可能だ。そこで犯罪を象徴する対象が選ばれ、このシンボル破棄の儀式を通して共同体の秩序が回復される。

  • 社会秩序への反逆に対する見せしめとして刑罰は執行される。(中略)禁忌に触れると恐ろしい処罰が待つと威嚇する機能を見せしめは担う。

  • 犯罪行為者が責任者として選定され罰を受ける場合は確かに多いが、それは責任や罰が因果関係に依拠するからではなく、犯罪事件が把握される過程で行為者が一番目立つからにすぎない。

  • 責任があるから罰せられるのではなく、逆に処罰が責任の本質をなす。

  • 自らは悪くないのに、家族や組織の部下がした行為の責任を負うのは日本社会の伝統だ。(中略)犯罪を制御する手段も学校や大学当局にはない。(中略)それなのに、あたかも恥ずべき事をしたように扱われ、マスコミに叩かれる。

第6章 社会秩序と外部

  • 記憶・意味・心理現象・社会制度はどれも虚構抜きには成立しない。責任・道徳・社会秩序を支える根拠は存在しない。だが、それにもかかわらず人間を超越する<外部>が仮象し、人間世界を根拠づける。

  • 宗教的世界観に支配された原始社会や伝統社会において、共同体を司る秩序や掟は人間を超える摂理として理解されていた。ところが近代になり、世界秩序の根拠が社会内部に移動する。

  • 責任そして一般的に言って道徳は、人間を超える<外部>から人間を縛る存在として感知される。正しい社会を合理的・意識的に規定する試みは必ず内部矛盾を含み、人工的に構築する社会契約は秩序を維持できない。

  • <外部>に支えられる身分制社会と異なり、人間が主体性を勝ち取った近代民主主義社会は本質的に不安定なシステムだ。

  • ロールズの想定する公正な社会では、仮想の人間にもはや逃げ道はない。社会秩序が正義に支えられ、階層分布の正しさが証明されている以上、自分が貧困なのは誰のせいでもない、まさしく自らの資質や能力が他の人より劣るからに他ならない。

  • 神の死によって成立した近代でも、社会秩序を根拠づける<外部>は生み出され続ける。虚構のない世界に人間は生きられない。

結論にかえて

  • 人の絆の不思議を解明する入り口として本書は、自由になされた行為だから責任を負うという因果論の検討から議論を始めた。自由意志を斥けるのは、科学的アプローチで人間世界を割り切るためではない。(中略)自由や責任を因果論の枠組みで考える発想自体が改められなければならない。

  • 責任という虚構。大切なのは根拠の欠如を暴くことではなく、無根拠の世界に意味が出現する不思議さを解明することだ。

  • (倫理観)どこまでいっても究極的な根拠は見つけられない。倫理判断は合理的行為でなく、信仰だ。それゆえに道徳・社会規範は強大な力を行使する。

補考 近代の原罪-主体と普遍

  • 相対主義と普遍 真理が、ものの見方や時代や文化的背景などに対して相対化されるとき、その真理の「根拠」は、その真理を可能にしているものの見方や時代や文化的背景である。(中略)つまり、ものの見方や時代や文化的背景に左右されないような、確固とした「根拠」は存在しないということである。

  • 普遍的だと信じられる価値は、どの時代にも生まれる。しかし時代とともに変遷する以上、普遍的価値ではありえない。相対主義とは、そういう意味だ。何をしても良いということではない。悪と映る行為に我々は怒り、悲しみ、罰する。裁きの必要と相対主義は何ら矛盾しない。

  • 未来に答えを預ける科学に対して、宗教の心理は過去に刻まれる。ユダヤ教にとってはタナハ(旧約聖書)、キリスト教にとっては旧約・新約聖書、イスラム教にとってはコーランが真理の源泉をなす。教義内容が毎日変わるようでは宗教の権威が崩れる。

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