とあるエヴァンゲリオン原理主義者の告白
ずっと前に書いてた文章です。そろそろ公開していいかなと思ったので公開します。
告白/シンエヴァ見る前
私が「エヴァンゲリオン」テレビ版が終わるとき、ああ、これで庵野監督は商業創作という苦痛から逃れられる、と思ってたんです。途中までは商業創作のバランスが取れてて観てても楽しかった。「サービス、サービスゥ」なんて予告してた頃はほんと作り手としても余裕綽々だったし、こっちも安心して楽しんでみてられた。「アスカ来日」のUN空母のデッキクルーたちが全く動いてなくても気付かないほど、ほんとにアニメとして上手く見せてくれてた。
でも途中からバランスが崩れだした。私はそれで心配しながら観てたんです。で、どんどんボロボロになっていって、26話でバランス崩しながらもなんとか終わることが出来た。
あれは観ててホッとしたんです。
途中から創作が苦痛になってる。それでも絞り出してる。血を流しながら作ってる。すごくその姿に、危うさを感じながらも胸を打たれてた。だから26話であのエンディング観て、ああ良かったと思ったんです。あの心配さ、不安定さだから出来るもの、それがエヴァンゲリオンだなと。バランスはどんどん崩れていくけど、バランスがナンボのもんじゃ、こちとら命がけで物語やってるんだ、中途半端に消費する奴なんて容赦なくふるい落とすぞ!という感じで見てた。だからこっちも「いいぞいいぞ、もっと振るい落とせ!」って応援してもいた。
庵野さん、バランス崩して無理筋の私小説の方向に行っちゃったけど、それでも終わらせることが出来た。あれあのままやってたら庵野さん全く無事じゃなかっただろうと思ってたから。私小説の方向ってやってて掘りすぎると書き手の命に関わっちゃうんです。特に監督という立場だとその危険を解決する方法が少ない独特の孤独におかれるわけで。
だから、26話で、ああ、良かった、と。もう十分庵野さんのやりたいこと、考えてることは分かった、と思った。ふるい落とされないで観ることが出来た、ありがとう!と。だからもうしっかり分かったから、休んでください、と。
あとで「監督不行届」とか読んだらホントそうだった。メンタリティとして当時の私、すごく共感してたのです。甚だ不遜ですが。
だから、そのあといくつもの映画をハイベースで作ってるの見て、嬉しいというより無理させられすぎてる、と言うのを感じました。とくにもう発表済みの26話のやり直しを何度も強いられてるように見えた。「air」「まごころを君に」はそのなかでもTV26話と並行した時間軸で起きたことだと分かった。あれは庵野監督の心の中でもあり、物語としてもそういう事だと。
だからもういいよ、もう十分わかってるから!と思ってた。でもそれなのにさらにいろんな映画をやることになってる。それもだんだん背景にどこかつらさがある。「キューティーハニー」なんかも観たけど、悪い意味でバランスが崩れてる気がした。それなのに商業と世の中の要請でさらに作らざるを得ない。バランスが崩れたまま。観ておられなかった。
そのあと序破Qで監督がバランスを取り戻していくのが分かった。でもその取り戻し方は、どこかシニカルで、商業創作なんてこんなもの、という要素が感じられた。それでも二次創作の人々は喜ぶ。パチスロのファンも増えた。まだまだエヴァは終わってない、と言う人々が大挙している。そしてYouTubeでは浅い理解でエヴァのオカルトの罠にハマってるだけなのにそれで喜んで、もっと消費させろと亡者のようになってる人々がいる。正直、私にはそれはすべて亡者の帝国のように思えた。庵野さんもそれで、もう、亡者には亡者に与えるべきモノを与えればそれでよくなっちゃったんじゃないかと。寂しさを感じてましたが、実際世の中というものは基本亡者のモノなので、それは責められない。ただ、私にはついて行けないし、庵野さんを物語としてこれ以上消費することに加担したくなかった。
だから今回の映画で、多くの人が普通に喜んでいることがすこし怖かった。
でも。
とある感受性を信頼できる友人が、見たあとにすごく打ちのめされてるのを見て、あ、これは庵野さん、もう一つの方向にバランスを取り戻せたんだ、と気づいた。
そう、消費される以上に創作すれば、どんな亡者の世界でも食い尽くされない。それはなかなか出来ることではないけど、本当の創作者の真に持つべき資質とはそういうもの。庵野さん、そこにたどり着けたんだなと思った。
フランス映画で題名忘れたんだけど、すごく悪夢のような映像でずっと綴られてて心が揺り動かされるのがあったのを思い出した。映画って不思議なもんで、動画としてみるのとぜんぜん違う。巻き戻せないし途中で止めてトイレにも行けない。そういうときにだけ出来る「映画の魔法」みたいなのがある。多くの名作にはこっそりそれが仕掛けられてる。庵野さん、多分それを仕掛けたんだろうなと。それはもう見る側の消費が追っつかない圧倒的なモノ。
亡者に媚びる技ではなく、消費の追いつかない圧倒的な創作と映画の魔法を手に入れられた庵野さん。
私は亡者たちに「ちゃんと終わらせろ」って言われてる庵野さんは見たくなかった。そんな連中に「良かった」と上から目線で言われてる庵野さんも。でも多分、今回の映画の庵野さんはそのどちらでもない。それ以上の武器を手に入れてくれた。それは多分確実なので、観てみようかなと思ってます。
そしてそれは商業が辛くてそれをやめた私にとって、良い答え合わせになるんじゃないかな、と。そして、それはエヴァというメタ物語からの、私の卒業の時なんだろうなと。
私の言葉の選び方が良くないんですが、エヴァ「序」までの映画観ると、私にはどうにも監督としては生煮えでやってるような気がしてならないんです。それも成長していく作り手の未成熟という健康的なモノではないものを感じてしまう。「序」はそこを軌道修正していくんだなと思えた。そして会社としてカラー作ったりしてるのみて、ああもう大丈夫だ、もう庵野さんはやっていける。あれだけの周りの人々といいお嫁さんに恵まれれば、折り合いの付け方も上手くなる。でも…と言う気持ちでした。
圧倒的にリッチなコンテンツに作り直された序破Q観てると、ああここはあの時夢見た未来そのものではなく、今のイオングループのショッピングモールだなと思ってしまう。一見きれいで、にぎわってて、よくできてて。でもそれを必要とする世界なんだし、それは受け入れるしかないんだ、と分かってる。でも。
だから、もういいよ、と。
でも庵野さん、そのイオンモールさえもたぶん良い方向にぶっ壊したんだろうな、と推測してます。まだ観てないけど。
ちなみに、シンゴジラ観たときに私むちゃくちゃ打ちのめされたのもあるんです。庵野さんこれやりたかったんだ!と庵野さんすげー、やっぱり見込んだだけのことあったな、と。
誕生日にシンゴジラ見終わったあと駅の裏の道に車止めて、1時間ぐらい打ちのめされてました。いやー、これやって欲しかった!ホントは私がやりたかったけど、庵野さんがしっかりやってくれた。もう誰にも何も言わせない!ってほどやってくれた!と。
だから、それもあって「もういいよ」もあるんです。エヴァに無理にもうこだわる必要は無いし、それが庵野さんの枷となることもありうるから、もういいよ、と。十分だよ、と。
でもそれもクリアしたんだろうなと。矛盾するいろんなモノをクリアする、止揚する事ができるのは創作だけ。それで解決できたんだろう。それに時間がかかるのは当然なんです。あのテレビ版26話でやろうとしたことはあまりにも時代に対して早すぎる要素があった。ようやく時代も技術も追いついたんだろうなと。
と言うわけで、「気ィ変わった、今変わった」で観てきます。
そして。
見ちゃったあと
シン・エヴァ観た。私にとってこれは答え合わせだった。で、ほとんどの答えは合致したと思う。
庵野さんは消費されるよりも先の世界へ到達した。苦しい戦いを戦い抜いた。
これはメタ物語だと言うこと。庵野さんのメタ化された私小説であり、SFであり、そしてそれは神話に到達した。
泣くのは自分のため。誰かをそれで救うことはできない。
そしてそれはエヴァという夢と、希望と、絶望と、死の物語の、卒業なのだ。そして、全ての父と母からの卒業。
そして私も、ようやく卒業の時を迎えた。
エヴァに出会って見た夢から、私は卒業することになった。
私はこれから一人になる。それでもその旅の中で結婚もできたし、離婚もした。辛いこともあったが、楽しかった。
そして、これからはエヴァとの夢から、私の夢に乗り換えて生きていくことになる。
特に絵コンテのシーンは、まさに答えが全てあっていたことを示してくれた。そういうメタな物語の体験だった。
感謝しかない。私は多分、エヴァに多くのものを教えてもらった。
そして私の夢の終わりも、近づいている。人と違う生き方を選んでしまった私も、私の夢にケリをつけることになる。