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キダ・タローさんとタンゴ

数多くのテレビ・ラジオの音楽、CMソングを手がけ、戦後の音楽史に大きな足跡を残したキダ・タローさんが、先日93 歳で亡くなりました。
巨匠でありながら、その飄々としたとぼけたキャラクターからテレビでも愛され、「関西のおもろいおっちゃん」としてすっかり定着していましたね。

訃報のニュースで初めて知ったのですが、なんとキダさんの音楽活動はタンゴ・バンドから始まったとのこと。
病没されたお兄さんの遺したアコーディオンを演奏し、5人ほど仲間を集めてアマチュア・タンゴ楽団をやっていたそうです。

詳細はこちらの記事で紹介されていました。

この時バイオリンを弾いていたのが『渡る世間は鬼ばかり』のお父さん役で有名な俳優の藤岡琢也さんだったというのも驚き。
高校の同級生だったそうです。

日本での本格的なタンゴ・ブームは1950年代の藤沢嵐子さんのアルゼンチンでの活躍から始まりましたが、それ以前からアコーディオンとバイオリンがあるならタンゴを弾こう!と連想するほどに日本で浸透していたという事ですね。

タンゴの楽譜などはそうそう手に入らなかったはずなので、おそらくレコードをもとに採譜し、編曲していたのでしょう。
生前のキダさんは「作曲より編曲の方が難しい」と語っていましたが、編曲についてはこの頃の経験が活かされていたのかもしれません。

3曲しかレパートリーのない高校生のアマチュアバンドながら、裕福な家でのダンスパーティに呼ばれ、謝礼まで貰えてやみつきになったとか。
「バンド来てくれへんか」「曲おまへんで」「えぇから」というやり取りが、いかにも関西らしい大らかさですね!

やがて神戸のダンスホール等にも呼ばれるようになったそうですが、なんと当時演奏していたのはボタンが8つしかないおもちゃのアコーディオン!
いったいどうやって演奏していたのか気になります。

戦後の関西のタンゴ事情はこれまではあまり情報がなかったのですが、キダ・タローさんのインタビューは当時の様子が少し見えてきてなかなか興味深いです。
実際に阪神間の裕福な家庭や都会のダンスホールでは、さかんにタンゴも踊られていたのが裏付けられました。

自分も同じ地域に住んでいるのでイメージしやすいですが、キダさんの生まれた宝塚市も含む、大阪北部から神戸にかけての地域は戦前に「阪神間モダニズム」と呼ばれる文化が生まれ、関西でもとりわけモダン好みの気風のある地域です。
タンゴのような文化もすんなり受け入れる下地は十分にあったことでしょう。

戦後間もない頃はだれしも生演奏を聴く機会に飢えていたはずですから、キダさん達のタンゴ・バンドは拍手喝采、大喜びで迎えられていたことでしょう。

こちらの記事では、当時の3曲だけのレパートリーが紹介されていました。
「ラ・クンパルシータ」、「フェリシャ(ファリシア)」は今でもよく演奏されている曲ですが、「カプリトウ」とは?

おそらくライターの勘違いで、これは「カプリ島(Isra de Capri)」という曲だと思われます。
それほど有名な曲ではないですが、当時はよく演奏されていたのでしょうか?

キダ・タローさんのタンゴの演奏活動は数年間だけで、結局プロ仕様のアコーディオンは高すぎて買えず、学校やダンスホールで練習させてもらえるピアノに転向したのだとか。

やがて仕事が早く、どんな時にも気軽に引き受けてくれることから放送業界で重宝されるようになり、30歳ごろには売れっ子作曲家に。
1000曲以上作曲したと豪語されたりもしていたそうですが、このあたりの風呂敷の広げ方は、数千曲作ったと豪語していた、かのアストル・ピアソラにも通ずるものがあります。

それにしても、もしキダさんがタンゴを続けていて、どうにかしてバンドネオンを入手し、関西タンゴ界の重鎮になっていたら?
そういうIFを想像してみるのもなかなか面白いものがありますね。


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