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初めての北海道 内村鑑三との出会い-ヨナタンのブログの名の由来


"I for Japan, Japan for the World, The World for Christ, And All for God."
[私は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、全ては神のため]
            墓に刻まれた内村鑑三の言葉

私は四人兄弟の三男として1950年に生まれた。上に二人の兄と妹が一人いる。上の兄二人はそれぞれやりたい事があって、三男である私が農家の後継となった。隣の家が見えない位、自然豊かな里山が故郷だ。初夏にはホタルが乱舞したり、田植えの時期の夜にはカエルの合唱が聞こえた。父は戦時中代用教員として尋常小学校で農業と漢文を教えていたが、後に長男として学校を辞め専業農家として米と野菜を栽培していた。母は隣の町からお嫁に来た文学を愛する女性であった。私が小さい頃家は、殆ど自給自作であり、食料として買うものは魚や鯨ぐらいであった。私が2歳の頃ハシカを患い生死の境をさまよった。そんな事で私は兄弟の中で私のみ病弱だった。その為両親は親戚から一頭の乳牛を買って、米栽培の副業として酪農を始めた。乳牛を飼えば子供達に思う存分牛乳を飲ませる事が出来るという動機からだった。この一頭の乳牛が縁で後に高校卒業後北海道に渡ることになった。

稲作だけでなく酪農を拡大させたいという両親の願いから、遠い未知の大地北海道酪農学園大学に進学する事になった。大学は父親が探し、受験などの入学手続きを全て整えてくれた。当時はまだ青函トンネルが開通しておらず、青森から函館まで青函連絡船に乗って北海道に渡った。父が選んだ酪農学園大学はミッションスクールでキリスト教精神で北海道や日本中の酪農農家の師弟を教育する目的で建学された。「青年よ大志を抱け」と言い残した有名なクラーク博士の札幌農学校のキリスト教の伝統を受け継ぐ人達によって開校された大学であった。大学の教授は全員クリスチャンで、学生寮は聖書から引用して創世寮とかヤコブ寮とか名付けられていた。校訓は「神と人と土を愛す」とされていて、週に一度校内にチャペルで礼拝もあった。大学はミッションスクールではあるが学問や宗教の自由が保障されており、様々の事をここで学ぶ事が出来た。大学に入学して間もない頃、当時大学の獣医学の教授であり副学長でもあった橋本副学長の部屋を訪ねて挨拶に行った。私は副学長に「私は統一教会の信徒ですが大学で伝道活動をやってもよろしいでしょうか」と尋ねた。橋本副学長から返って来た言葉は「ここは大学です。自由にやって下さい。」との答を頂いて感激したのを覚えている。

大学生時代を含めて合計7年間北海道で過ごした。すでに高校一年生の時、統一原理に出会っていたが北海道に来て更にキリスト教について学ぶ事が出来た。内村鑑三の本「余は如何にして基督信徒となりし乎」「代表的日本人」「内村鑑三聖書注解全集一巻〜十四巻」などや三浦綾子の本「氷点」「塩狩峠」のどを読んだ。札幌農学校開校時に初代教頭として赴任され、教育を一任されたクラーク博士は短い赴任期間ではあったが農業という学問を超えて、聖書を携えてキリスト教を英語で教えた宣教師でもあった。札幌農学校の出身者には第二期生であった内村鑑三や同級生には宮部金吾や新渡戸稲造らがいる。特に内村鑑三は宗教界、教育界、出版会、など多大の影響を与えた。生涯を聖書の研究と普及、伝道に捧げられた。そして私の人生にも多大な影響を受けた。

実はヨナタンのブログの名前の由来は内村鑑三の洗礼時のクリスチャン名が英語ではjonathanと呼ぶが日本語ではヨナタンである、そこからヨナタンのブログと名付けた。16歳の時神様に誓った「神様との約束、地の果てまで」という約束を果たさん為、内村鑑三先生の様に、キリストの証人、再臨主の証人とならんとせんが為に付けました。

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