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WITH School 

ホリベミカ

ここ数年で、一般的に「学校」と呼ばれる場に行くことをやめる子供達とその思いを尊重する親御さん達の姿勢が一つの在り方として社会に浸透してきているように感じる。我が娘も学校はつまらない、行きたくないといいながら、友達と遊ぶことはおもしろいので、折り合いをつけながら通っている。それで十分だけどね。
そして、現場の先生を辞めた知り合いや、現役の先生から話をきくと教える喜び以上に、大変そうだなという気持ちになってしまう。「惰性でなんとかやっています」という、なんとも疲れた言葉を聞くと、思うところがあってもそこを乗り越えようと四苦八苦しながら子供と向き合おうとしている姿やどうにもならない現場の様子が思い浮かび、いまいち楽し気はしない。一生懸命「こと」をこなしている感じ。気持ちや「おもい」の部分は置かれたままな感じがする。

もっと「学校」って面白い場になるんじゃないの?そもそも学校って?学校行く必要あるの?と、ふつふつと答えの無い問いが沸き上がるこの頃なのです。

個の学び

自分自身にとっての「学校」を振り返ってみると、勉強することが楽しいと感じたのは興味のある勉強を自分の勝手にできるようになった大学からで、それまでは私自身は興味をもって学ぶというより、言われたことを覚えているだけだった。その中からでも自分の好きな科目や得意分野もあったし、知識の押し込み方は知ったけれど、学んだ一つ一つは今となっては年齢とともに忘れ去られた部分も多く、もっと自分にとっての学びを意識的に捉えることができていたら、その学びは今も身体に残っていただろうと思う。そこはすごく勿体ない.

 ある子供が「毎日、自習がいい」と話していたのが印象的だった。それぞれ興味のあることも違うし、タイミングも吸収する時間もキャパシティも違う。100人いたら100通り。そうだよね。いくらぎゅうぎゅう押し込まれても、忘れてしまっている自分を振り返ると、その時その時に自分の興味にじっと向き合う姿勢を学んでいたら、もうちょっと早く自分を知ることができたし、苦しまずに済んだのかもしれない。


学校と居場所

学校と呼ばれる場所が、何か行き詰っているように感じてしまうのはなんでなんだろうか。それぞれが意思をもって動けないような不自由さのような空気。子供達もそうなんだけれど、子供たちを見守る先生たちからも息苦しさのようなものを感じる。子供と向き合う現場の先生たちも「こうしなさい」という上から(←て何?)の指示でしか動けない教育システムの中枢にいる部分も大きいだろうと、コロナ期間中における学校運営の対応で混乱している現場を感じると、学校という小さい現場単位での判断も含まれているのだろうかと疑問に思う。
今、この教育システムの中で喜びを感じながら、先生という道を進んでいる人がどれだけいるのか。いろいろな先生に聞いてみたい。
今の学校も学力の底上げというところでは、とても有意義なシステムなんだろうとも思う。みんなが文字を読め、足し算引き算はできるし。それは凄いことだと思う。それでも、やっぱり、子供たちの時間の大半を過ごす「学校」という場にいる人々が、互いに意識をもって、もっともっと生き生きと集まれる場になれるんじゃないのかな

個人に寄り添った学校は大きな社会というマスの中では難しいのだろうか。

今の義務教育における学校がもっと自由になれないのか。

今のようにフリースクールという形との共存になるのだろうか?

でも、学校に行けている子供の中にも、きっと息苦しい子供はいるだろう。
どんな学びの場か
居場所があって見守る人がいるだけでもいいのかも 
色々と知って触れていきたいと思うこの頃なのです。


#これからの学校ってどんな姿
#居場所