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ホンモノとニセモノはどう見分けるか

時事通信社が運営する「時事ドットコム」に、拙稿「『ノット・フォー・ミー』が分断を和らげる」が掲載されました。会員限定の記事ですが、登録・講読は無料で可能とのことです。

概要が伝わるように、節タイトルを目次として列記するとこんな感じ。全体で3000字くらいの短い論説です。

・「控えめ」な人こそが本当は強い
・令和の日本社会がおかしい理由
投資詐欺と同じ未来予測は要らない
・ホンモノは「古典」の中にある

タイトルにある「ノット・フォー・ミー」とは、共著『ボードゲームで社会が変わる』で紹介した用語で、プレイしたゲームを評価する際に「私には向かない」の意味で使うフレーズです。

他の人の評価は違うかもしれないし、だから自分の価値観を押しつけることもしないけど、でも「私には」合わなかった。こうしたスタンスを採れる人こそがホンモノで、異なる立場の人とも一緒に居られる社会を作るというのが、拙稿の論旨のひとつになります。

ところが2000年代の半ばに始まり、10年代を通じて定着していったSNS社会の副作用は、むしろ「ニセモノ」の方を目立たせてしまうことでした。

個々のユーザーの主張や内面といった、SNS以前には親しい人にしか見せなかったものを、ユーザーがこぞって可視化するようになった。その結果、「私はこう思う」として発信するホンモノの論説よりも、他の人を「みんなも同じはずでしょ!」と巻き込んで同調圧力を煽るニセモノの声の方が、響きやすくなっちゃったんですね。

もちろん世の中には、なにがホンモノかなんて「定義しないで別にいい」、ぶっちゃけニセモノとの間に「違いなんてない」とする立場もあります。難しげに言うと反本質主義ですね。

日本で最初に流行したのは、バブル景気だった1980年代に消費社会論として。商品に「本質」なんてないんだから、ニセモノをキャッチコピーだけの魅力でホンモノとして売ろうが「勝手でしょ?」という楽しい話でした。

90年代には反本質主義が政治化しますが、それは「日本人の『本質』」みたいなものを求めすぎると、必ず「本質を共有しないニセモノ」と見なされた少数派への迫害を生み出すのでよくない、とする主張としてでした。政治的な議論を繊細に展開するためにこそ、あまり「ホンモノ」とか言わないようにしよう、というマナーがあったわけです。

歴史なき時代に』に収めた対談で、同世代の大澤聡さんと振り返ったように、大学入学が1998年だった私くらいまでは共有していたその前提が、しかし21世紀に入ると崩れてゆくんですね。

2020年代のいま、政治的な議論は単純で粗野なものになっています。これを「正解」にしようと勝手に決めた人々が、SNSでお手軽に「広範な支持」をリクルートする。すべてが根拠のないニセモノなんだから、だったらホンモノなんてインスタントにでっち上げればいいじゃん? という、90年代とは正反対のところまで来てしまった。

なので個人的にはこれから、とりわけ学問や言論の世界においては「ホンモノ・ニセモノ」といった本質主義に基づく評価を、むしろ積極的に発信してゆくようにしたいと思っています。

もちろん私がホンモノだと見なしたものが、他の人にはニセモノに見えたり、その逆もあるでしょう。そうした時にどこまで「ノット・フォー・ミー」の精神で対応できるかが、おそらくは成熟の指標ということになりそうです。

今回の寄稿は、その第一弾。多くの方にお目通しいただければ幸いです!

(ヘッダー画像は、代表的な人狼アプリより。アナログでの「人狼」を通じて私が考えたことは、『ボードゲームで社会が変わる』の4章をどうぞ!)

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