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【掌編小説】通り雨

 彼は、傘を取りに戻らなかった。
 そんなことは不可能だと知りながら、あわよくば洗い流されるようにそぼ降る雨に溶けてしまえやしないかと、頭の片隅で夢想していたからだ。
 空気はぬるく、雨は温かかった。それは細く見えない糸のように、彼の髪を、皮膚を、撫でるように濡らしていく。空気中に多分に含まれる湿気、そして視界を遮る銀糸に包まれていると、このまま本当に煙に巻かれるように消えてしまえるのではないか、とそんな気がして、馬鹿らしいと思いながらもじわりと膨らむ期待に苦笑が滲む。
 ちなみに、天気予報のアプリに傘マークがないことは確認済みだ。朝だけに限らず今日という枠のどこにも、雨が降るという印はなかったのに。
 しかし彼と同様に濡れている人は少数で、駅へと向かうほとんどの人が傘をさしていることには少し驚いた。
 とはいえ天気予報といっても色々あるのだから、たとえばテレビでは『にわか雨に注意』とか、『念のため、傘を持ってお出かけを』だとか言われていたのかもしれない。
 とにかくこの朝、彼は雨に降られた。だが隙をついたようなそれは長くは続かず、雨の一部として彼を溶かすには至らない。それを少し残念に思いながら、みるみるうちに広がる明るい空を仰ぎ見て、アプリの予報と同じだな、と目を眇める。
 彼は駅前のコンビニで、朝食用の菓子パンと500mlの無糖紅茶を買った。ロータリーの前では、ジャージ姿の女性が何かしらのチラシ配りの準備をしている。大きな段ボールを移動させ、それを地面に置いて顔を上げると、「いってらっしゃいませ!」と明るい声を発した。
 たまたま彼女が顔を上げたタイミングで目の前を通ったのが彼だった、ということに過ぎないのだとしても。衝動的に会社を休んで安堵するより先に、職場という所属を無くした未来予想図を浮かべた途端、冷たく這い寄る焦燥に居ても経ってもいられず家を飛び出した彼にとって、何者でもなくなる自分を怖れていた彼にとって、その一言は所属場所のある、行き先のある人々と等しく早朝の駅に在る自分を肯定する言葉として胸に落ちた。
 いってらっしゃい。
 短い一言を反芻する。物心ついた頃から言われ、言ってきたその言葉に、今さら感慨を抱くことになるとは思いもしなかった。
 いってらっしゃいの、その先は決まっていないのだ。どこへ向かうのか、という部分が空白であることに救われるおもいがした。
 にわか雨に降られた。これが出勤の最中なら不快でしかなかっただろう雨の、温かさを知った。
 すっかり晴天と化した空の下を歩きながら、無意識に息を吐く。さっきのコンビニで冷房が効いていたおかげで、中途半端に湿っていた髪や皮膚はすっかり乾いていた。そしてこんなふうに肩の力を抜けたのが、相当に久しいことにも思い至る。
 社会という外側と自分を紐付ける様々なものについて、いつからか必要以上にそれらを明確にしなければという意識が働いていた。それは責任という種種のゲートに繋がるものが大半であるのだが、しかしそのほとんどは自身の納得とは離れた場所にあるにも拘わらず、そういうものだから、という呪文で以て、思考を手放したままゲートへ向かう操縦席に着いていたに過ぎない。
 もっと曖昧でいいのかもしれない、という思いが彼の内に芽生える。
 見知らぬ相手から、見知らぬ自分へと、送り出す言葉をかけられた。つまり駅を目指す人々と彼との差別化を図るなど他人にとっては何の意味もなく、件の彼女からすれば誰も彼も一括りで、同じ日の同じ時間、同じ場所にたまたま居合わせた誰か、というそれ以上でも以下でもないのだ。
 たとえば会社と自分とを繋ぐ糸が切れたとして、その途端に透過度100%と化し、きれいさっぱり世界から消え去るわけではないのだということを、不意に実感を伴い理解する。
 各々に繋がる糸の透過度は行く先々で変化するもので、目に見えてわかりやすい社員証など、その中のほんの一部でしかない。と、この瞬間彼がそう意識したことで、それは『そういうもの』に成った。御仕着せの呪文ではなく、彼の意思が唱えた結果だ。
 ほんの数十分前のこと。上司に欠勤の連絡を入れながら、彼の心情は逃亡者のそれだった。今日を休んだとして明日は? その次は? 到底休むという単語からは程遠い心境に息を詰まらせながら通話を終えると、既にどっと疲れ切っていた。切羽詰まっていた。
 意図したものではなかったが、家を飛び出た彼の行動は逃避行としての役目を存分に果たしたということになる。
 ここではないどこかへ行きたかった彼のこころを、これまでとは異なる視点を持てる位置へと導いた。目に見える一面だけでは到底推し量れない多様を抱く世界に、彼もまた抱かれていた。
 彼は呼吸をする。これまでより、少しだけ楽に息が吸えた。追い詰められた逃亡者は、ちょっとそこまで、とふらり自主避難を決め込んだ、身を守る術を知るひとりの青年としての姿を思い出していた。二つの顔を分かつ彼岸はひっそりと、迷いに添うように現れるのかもしれない。
 なんとなく明日からの自分を想像してみると、間もなくおとずれたのは合図もしないまま気まぐれに降っては止んだ通り雨、そのやわい感覚がそっと脳裏を包む温かさだった。

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