無神論者の祈り - ジェフ・バックリィ「Hallelujah(ハレルヤ)」
クリスマス・シーズンによく流れる歌、「Hallelujah」の訳と解釈。
誤解を招くような記事タイトルですが、無神論者とは私のことです。
この名曲の作者のレナード・コーエンはユダヤ教徒で(臨済宗のお寺で修行経験もある)、この名カバーを残したジェフ・バックリィはたぶんあまり熱心ではないキリスト教徒だったのではないかと思います。
では、まず歌詞の和訳から。(13/9/2023 著作権侵害にあたるようなので、英語の原詞を削除しました。)
「Hallelujah」
(歌: Jeff Buckley 作詞作曲:Leonard Cohen)
秘密のコードがあったらしい
ダビデが奏でて神を喜ばせたと
でも神サマは音楽なんて本当はどうでもいいんだろう?
進行はこうだ--4thコード、5thコード
マイナーコードに下がって、メジャーコードに上がる
戸惑いながら神を称える歌を紡ぐ王
信仰心の篤かったお前だが、それでも証拠を欲しがった
お前は屋根の上で水浴びする彼女を見た
彼女の美しさと月光に打ち負かされたんだ
彼女はお前をキッチンの椅子に縛り付け
お前の玉座を砕き、お前の髪を切り落とした
そしてお前の唇からハレルヤを引き出した
ベイビー、俺はここに来たことがあるんだ
この部屋は見覚えがあるし、この床も歩いたことがある
お前に出会うまで俺は孤独に生きていたんだ
大理石のアーチの上にお前の旗が見えた
だけど愛は凱旋マーチなんかじゃない
冷たくてぼろぼろのハレルヤなんだ
以前は俺に伝えてくれていた
下の様子がどんな感じかを
でも今じゃ全く見せてくれない
でも覚えているだろう、俺がお前の中で動いたら
聖なる鳩も羽ばたいたときのこと
俺たちが吸い込む息のすべてがハレルヤだった
もしたら神はいるのかもしれない
でも俺が愛から学んだことといったら
自分を出し抜こうとする奴をいかに撃つかということだけ
夜中にあんたが耳にするのは泣き声じゃない
信仰に目覚めた誰かじゃない
それは冷たくてぼろぼろのハレルヤなんだ
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<旧約聖書のエピソード>
この歌は旧約聖書の二つのエピソードを下敷きにしている。
一つ目は、古代イスラエルの王ダビデと人妻バト・シェバの話。
貧しい羊飼いの息子で竪琴の名手だった彼は、初代イスラエル王サウルに後継として見出され、サウルの亡き後、二代目の王となった。
偉大な王と慕われ神の寵愛を受けていたダビデだが、あるとき、家臣の妻であるバト・シェバの水浴を見かけたことから彼女を見初め、関係を持つという過ちを犯す。秘密の発覚を恐れた王は、夫のウリヤを戦地に送り戦死させ、ダビデとの子を妊娠していたバト・シェバを妻にした。
しかし、彼らの子は生後数日で死に、ダビデはこれを神罰として受け入れた。
二つ目は、古代イスラエルの士師サムソンの話。
神からライオンを素手で引き裂くほどの怪力を与えられていた彼を、敵対するペリシテ人は何とか倒そうと画策していた。彼らはサムソンの恋人のデリラを金でそそのかし、サムソンの弱点を聞き出すように仕向ける。三度ははぐらかしたサムソンだが、デリラの泣き落としにとうとう根負けし、自分の怪力の秘密が生まれてから一度も切ったことのない髪にあることをもらしてしまう。
デリラの密告を受けたペリシテ人によって髪を剃られ怪力を失ったサムソンは、両目をえぐられ、ガザの牢獄で粉ひきの労働をさせられる。
しかしある時、牢から出され見世物にされていたサムソンは神に祈り、怪力を再度与えられた。彼は柱を2本引き倒し、見物に集まっていた多くのペリシテ人たちを道連れに建物の下敷きとなって死んだ。
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この歌は全体が二重構造になっている。
ここでは失恋の歌として訳したが、全編を失われた神との調和を歌ったものと解釈することも可能だ。自分の心の弱さのために神の愛を失ったダビデやサムソンの思いそのままに。
作者のコーエンは聖書の二人に個人的な体験を重ねながら自分と神との関係を歌にしたのだろう。しかし、彼によるとこれは宗教的な戒めの歌ではないらしい。
彼はこんな言葉を残しているそうだ。
ダビデやサムソンが味わった様々な感情は、程度の差こそあれ、この世界の誰もが経験するものだ。
聖書の教えや指導者たちの言葉には反するかもしれないが、後悔や罪悪感を抱えながら口にする「ハレルヤ」、裏切りや失望、孤独の苦しみの中で呟く「ハレルヤ」、性的な至福や恍惚から漏れる「ハレルヤ」、そのどれもが等しく価値がある。それがコーエンがたどり着いた答えだった。
神との自分なりの向き合い方を見つけたコーエンの清々しさは、バックリィが歌わなかった最終詩節に宿っている。
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ゴスペル風コーラスを従えた宗教色の濃いコーエンのオリジナルと違って、ギター1本で儚げに歌われるジェフ・バックリィのカバーは世俗的だ。
恋人と出会い、甘美な陥落を経験し、やがて生じた不和に悩み、孤独に戻っていく。ほとんど悟りとも呼べそうな晴れ晴れとしたコーエンの最終詩節を欠いているために、バックリー版はただの切ない失恋ソングにも聴こえる。
「Hallelujah」を「I love you」に置き換えると理解しやすいと言った人がいるらしいが、それはなかなか的確な指摘だと思う。
バックリィは自らのバージョンを「性的オーガズムへのハレルヤだ」と語った。コーエンの歌の持つ聖性は意図的に薄められているのだ。
そう聞けば、恋人によって台所の椅子に縛り付けられ彼女に導かれるまま「ハレルヤ」と口にするシーンが、男が理性や権威をはぎ取られて女の支配下に落ちる比喩であるというだけでなく、同時にとても性的な現実の光景に見えてくるし、「聖なる鳩」の部分が、快感で天国を味わったということをきわめて露骨に表現していることにも気付くだろう。
しかし、そんな幸福な時間もやがて終わり、歌は最終詩節を迎える。
自分が神の存在を信じているのかさえ分からない。それでも口にせずにはいられない。
声を振り絞った「冷たくてぼろぼろのハレルヤ」は神を称えるというよりは、むしろ詰っているかのようだ。そして後に続くのは、まるで祈りのような「ハレルヤ」。
無神論者の私にはこのバックリィの世俗的なカバーの方が合っている。しかし「I love you」では駄目なのだ。世俗的な歌でありながら宗教的な「Hallelujah」が繰り返される。それも不思議な敬虔さを伴って。
だからこそ私は、彼が歌うこの歌が好きなのだ。
ろくに信じてもいない天上の存在を称える言葉。
痛みを昇華させるかのように暗闇で紡がれる祈り。
私はその祈りを知っている。
ありがたくいただきます。