やられても愛を返す

普通の会社、普通の人、普通の幸せ、普通の人生、そのどれもに馴染めなかったから、わたしは天才でなければならなかった。だってそうじゃなかったら、落ちこぼれだと証明されてしまうから。

友人はわたしのこと、人をステータスでも、お金でも、肩書きでも見ていないと評価してくれた。たしかにそう。仕事はできるけど配慮のない発言を平気でしちゃう上司に指示や注意などされようもんなら、ムカつきすぎて仕事辞めちゃうような人間だし。ステータスや、お金や、肩書きで人のこと見れたらどんなに楽だったろうと思う。これはわたしの素敵なところでもあり生きづらいところでもある。

どんなマイノリティにも配慮できる人でありたいと思うし、デリカシーのない人間にだけはなりたくないと思う。誰一人取りこぼしたくない。「自分が言われて嫌なことは人に言わない」を何年も徹底して生きてきた。それでも「自分がされて嫌なことは人にしない」は最近始めたことだし、まだまだ努力が足りないという感じ。

「自分が言われて嫌なことは人に言わない」も、「自分がされて嫌なことは人にしない」も、自分が傷付いてから始まることで、それによって生まれた配慮には気付かれないことのほうが多い。こんなに傷付いているのに、それでも守ろうと思った当人に努力や我慢に気づいてもらえらないのは正直割に合わない。まぁしょうがないけど。かっこいい大人になりたいし。

普通にもなれないし天才でもなかった落ちこぼれだから、こういうことに気付けるようになったと思う。1番大切にしたい自我は、落ちこぼれから始まっている。

ところで、自分の人生を不幸だと言い切ってしまうことにやはり少々傲慢さを感じるので、あまり言わないようにしていて、「わたしの人生、どうしてこんなに不幸なの」なんてきっとあなたの前で言ったこと無かったと思うのだけれど、というような人が、勝手にわたしのこと不幸だと言っていてびっくりしちゃった。あんたに決められる筋合いねぇよ。あんたが気付かない幸せの形態にわたしは気付いてる。ありがとね、悪いわね。という感じ。

今朝は目をつけていた駆け出しの女優が面白いドラマのヒロインに抜擢され出演していることに気がついてめっちゃ嫉妬したけど、まぁそれはさておきわたしはわたしのこと好きだしな、富も名声も地位も譲るよ(何様)、と己をたしなめること山の如し

身軽になってスッキリした、後悔なんてしていない

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