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「マスクもつけずに」 はらまさかず

4月に就職してから、ほぼ毎日出勤している。
在宅勤務って、どこの世界の話?
働くところがあるだけ、まだいいけど。

朝、とっても憂鬱。
仕事じゃなくて、電車に乗ること。
いつも、7時37分発の電車に乗る。
けっこう、ぎゅうぎゅう。
その電車に、あいつが乗ってくる。

あいつはいつも、駅の階段を駆け下りてきて、
滑り込むように電車に乗る。
…マスクもつけずに。
そして、肩で息をしながら、リュックから個包装のマスクをすばやく取り出す。
そこからが長い。
あいつは、個包装が開けにくいという下手な芝居をする。
どこを破ればいいのかわからないというように、太陽に透かしてみたりと芸が細かい。
のらりくらりとしてるまに、駅を3つ過ぎ、あいつはマスクをしないまま、まんまと電車を降りていく。
猛暑のなか、みんな我慢してマスクしてるんだからさ。
マスクしてよ。
一人で生きてるんじゃないんだから。


あいつがまた、電車に滑り込んできた。
いつもの小芝居が始まる。
みんな、あきれている。

ちょっと離れた優先席に若い女の人が座っていた。
赤ちゃんを抱っこしてる。赤ちゃんは機嫌が悪いようで、むずかって手足をばたばたさせていた。
赤ちゃんが伸ばした手にお母さんのマスクがひっかかった。
そして、下に落ちた。
その様子を、見るとはなく見ていたみんなが思った。
(あっ!)
前に立っていた人が、落ちたマスクを踏んでしまったのだ。


お母さんは急いでハンカチを取り出し、口にあてる。
そんなこと、気にしなくていいのに。
と、思った瞬間、あいつが、さっと、個包装を破き、マスクをつけた。
そして、
カバンからもう一つ、個包装のマスクを取り出した。
「これ、どうぞ」

電車はちょうど駅につき、あいつはマスクを渡すと、さっさと降りていった。

電車に乗るのが、ちょっとだけ、嫌じゃなくなった。

(2022年8月23日一部加筆修正)


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