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死にたい夜に効く話【9冊目】『センセイの鞄』川上弘美著

高校生の頃から、川上弘美さんの作品が好きだった。
あの、誰にも真似できないような、独特な文章が無性に読みたくなる時があるから、彼女の本はいつも、本棚の中でも出しやすいところに置いてある。

今なのか、過去なのか
この世なのか、あの世なのか
現実なのか、夢なのか

そんな、「あわい」の世界を描くのが絶妙な作家さんだと思っている。

『センセイの鞄』は、主人公のわたし・ツキコさんが、行きつけの居酒屋で高校時代の元国語教師と再会する。わたしとセンセイの、何ともいえない距離感の交流が描かれる。

『センセイの鞄』は恋愛小説だ。
なのに、この作品のことを考える時、思い浮かぶのはなぜか、どうにも恋愛味があるのかないのか、そんなシーンばかり。

割れた蛍光灯の破片で足を切ってしまったシーンだったり、
まじまじと茹っていく蛸を見つめている蛸しゃぶのシーンだったり、
ウィルキンソン炭酸水をいつも冷蔵庫に常備してるって話だったり。

改めて、じっくりと読んでみれば、定着しているイメージ以上に、「恋愛小説」でびっくりした。

これはもう、最初に読んだ高校生の頃の印象が、あまりにも強く残りすぎているせいだと思う。

同じものを見ていても、大人と子どもでは、全く見えている世界が違っている、なんてことはよくあること。

高校生の頃の自分は、大人の恋愛模様よりも、
行きつけの居酒屋だとか、パチンコの景品のチョコレートだとか、当時の自分なら行かないような展覧会や、パッと聞いて「何それ?」と思うような物をツキコさんとセンセイが楽しんだりする様子の方に興味が持っていかれていたと思われる。

世間知らずな女子高生にとっての『センセイの鞄』は、まだ覗いたことのない「大人の世界」の詰め合わせみたいな作品だったんだろう。

今だったら、気にもしなかったりするところに、10代の頃は、トキメキや好奇心がうずいていた。
どうにもここ何年か、小説を読んで面白いと感じても、かつて感じたようなキラキラした感情が湧いてこなくなったというのは、そういう歳を重ねてしまったが故に失った能力なようで少し悲しい。いや、大分悲しい。

自分の家の冷蔵庫には、意識していたわけではないけど、ウィルキンソン炭酸水が常駐している。
無意識に、あの頃の憧れをなぞっていたのかもしれない。

(2023年10月9日)

〈参考文献〉
川上弘美『センセイの鞄』文藝春秋、2004年