記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

Wikipediaとネタばらし

 (ネタバレ自体の話でネタバレはしません)

 Wikipedia。つい見ちゃうんだけど好きか嫌いかでいえば嫌いなサイト。記事の信憑性がそんなに高くない前提で、ちょいと調べるときには検索で上位にひっかかって話が早い。記事によっては読み物として面白い。けれどこの項で扱うように難点も多い。

匿名での寄付ができない

 寄付を募る。それはいいんだけど圧が強い。寄付をしないことが悪のような訴え方をしてくる。加えて一度寄付をするとしつこいらしい。いや、裏を取ったわけじゃないけどうかつに寄付をしなくてよかったと思う。

過剰な出典主義

 ネタにされた本人や作者の供述よりも、とにかく本の記述を優先する。引用元さえあれば引用元の正誤や思想の偏りはあまり追及されない。そもそも本人による編集は不可。
 その方針により結果偏向的と思われる記事が見られる。
 まあ、事典において「何を真とみなすか」というのはとてもセンシティブな問題で、編集する人が大勢であることを考えるとそこそこ妥当な着地点なのかもしれないな、とも思う。本人の発言が正とは限らない訳で、そもそも妥当な着地点がない。

ネタバレ方針

 個人的にはネタばらしという表現を好むがwikipediaの記述にあわせる。検索で上位にひっかかるサイトのに容赦なくネタバレする。キャクラクタ設定からオチまで警告は一切ない。というか方針としてそうなっている。

 記事によっては本当に記述された作品への敬意もへったくれもなく、オチまでがっつり書かれている。そうでなくても物語中盤~終盤で明かされるキャラクタ設定などは書かれるほうが普通だ。それが中立的だというのだから大したものである。恐ろしい記述がある。

もし百科事典の記事の中でトリックや犯人などの情報が伏せられていたら、事典の読者はその作品について具体的にどのような点で画期性があるのか何もわからず、したがってその作品に付されている内外の論評を理解することもできないし、その作品の歴史的な重要性を十分に理解することもできないでしょう。作品の重要な詳細を伏せたまま作品を紹介することは、公式サイトや販売サイトの役割であり、そもそも百科事典の役割ではないのです。

  とまあ、ここまであからさまに「wikipediaではミステリの犯人やトリックをばらして構わない、いやバラせ」と書かれている。自衛するしかない。いや、ネタバレも百科事典の役割じゃないだろうよ。それは強いて言うなら評論の役割だ。そして評論でも警告などの自重をする。

 結局私がwikipediaを嫌いな一番の理由はこれにある。あまりにも創作に対して敬意がない。そこには「ファンだから」という建前すらなく、ただただ「事実そこに書かれているからそのまま書きます」でしかない。そしてそんな記述が割と多くの作品で検索上位にひっかかる。

 今放置されている時点で無理筋なのは承知で、著作権にひき殺されてしまえ、とすら思う。いやさあ、従来の紙の百科事典は古典のネタばらしとかしてないじゃん。それでも事典は事典として立派に機能している訳で。wikipediaの方針はどこでこうまでおかしなことになったのか。

 「事典でフィクションを紹介するときはオチまで紹介しなければいけない」という思想は大変によろしくない。「その作品の歴史的な重要性を十分に理解することもできない」って言うけどさ、いいんだよそれで。それは事典に求めることじゃない。
 それこそ新明解国語辞典の「おいしい」じゃないんだ、歴史的重要性なんて概念は犬にでも食わせとけ。事典のやることは事実の記述だけだ。あらすじを1から10まで書くのではなく、歴史的評価をするのではなく、書きたいのなら「文学賞受賞」とか「売上」とかそういう客観的事実だけ書けばよい。

 いや本当、どうにかならないかなあこれ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?