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微睡の水平線、記憶の傷痕

雨粒の降りしきる浜辺は、いつになく閑散としていた。遠くの岩場で釣りを続ける人々だけが、一列に蠢いて見えた。
履いてきたサンダルを脱ぎ捨てて、湿った砂場に足を下ろす。昼の間に海水浴客に踏まれ尽くしたであろう砂は、死んだ生き物のようにひんやりと冷たい。小石や貝殻の破片が皮膚の表面を僅かに刺した

告げられた言葉は、当然のようにうまく飲み込めなかった。確かに最善の選択だ、と納得しようとする自分の言葉や思考が、他人事のようで信じられなかった。
感情で物事を決めれば後悔するとわかっているから、自分自身がこれからどういう選択を取るのかは知っていた。ただ淡々と日々をやり過ごして、黙々と努力を積み上げていくのがいい、と切り捨てる思考は酷く冷静だった。
感情だけが取り残されて、上滑りするような日常をやり過ごした。涙の膜が張ったように、毎日がどこか非現実的だった。人々は優しくて、自分が存在してもしなくても変わらないのだろうと感じた。

ぽつぽつと音を立てて、生温い水滴が延々と海に吸い込まれていく。無秩序な音階に、つけっぱなしのイヤホンから流れる柔らかなオルガンの音色が溶けていった。
低く澱んだ雲が、水面近くまで迫っていた。水平線でくっきりと分け隔てられていたはずの空と海の境界が、どこか朧げになっていく。傘を差したまましゃがみ込むと、寄せてきた波で服の裾が塩水に浸った。自分まで曖昧な存在になっていくようだった。

この隙間に飲み込まれて、なかったことにしてしまおうか。

そんなことを考えていると、仄暗い世界に僅かな光が差した。比較的薄くなっていた部分の雲が切れて、光の柱が降りていた。濡れた砂浜の表面が艶やかに照らされる。突然の天気雨に、海面はどこか幻想的な雰囲気に包まれた。

きっと特別過ぎたんだろう。あの場所はもはや私の内臓だった。
恋と呼ぶほど盲いていなくて、愛と呼ぶには稚拙だった。
それでも、日常を置くには重苦しくて、私的過ぎた。

耳元ではオルガンの柔らかな旋律が鳴り響いていた。
祈るような気持ちで、光にじっと目を凝らした。
そこには答えが、あの頃の記憶があるような気がした。

初めて他人を信じた経験が、神聖で触れ難いものであることくらい、人生においてかけがえのないものではないだろうか。
それはあの記憶から生まれる、重要な意味の一つだったのではないだろうか。
これから先、この呪いのような感情が火傷痕のように身体に残って、共に生きていくしかないとしても。

波が引いたタイミングに合わせて立ち上がる。
気がつくと雨は止んでいた。傘を閉じると、砂浜を後にした。

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