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パンフォーカスの話(連載「写真の本」11)


前回からの続きみたいな話になるのだが、「パンフォーカス」ということを考えてみたい。
パンフォーカス、写真の技法において、レンズの絞りを絞り込むことによって手前から遠景まですべてにピントを合わせることをいう。

普通、人間の目というのは、そんなに深いピントの深度を持っていない。どこか目の前の物体なり人物なりに目の焦点を合わせると、その手前にあるものはボケて見え(前ボケ)、後ろにあるものもボケて見える(後ろボケ)のが普通である。

パンフォーカスに近い視覚を得ようと思ったら、人間の目の場合、少し遠めのものに実際の焦点を合わせながら、ちょっと目をこらすように狭めてみればよい。周辺光量は落ちるものの、多少ピントは深くなる気がする。実際、目が絞りを絞るような具合になっているのだろう。

とはいえ目は機械ではないし、そもそも人間の目は全面をまんべんなく注視できる仕組みにはなっていない。実際に目の前の光景すべてが克明に見えることはない。
やはり全面にピントが合った状態というのは、カメラ・レンズという装置を使わなければ得られない「不自然な」光景である。

写真の黎明期においては、写真レンズの性能の限界もあるし、きちんとしたパンフォーカスというのは難しかっただろう。
詳しい説明は省くが、ピントを深くするには焦点距離の短いレンズを作らなければならない。そして焦点距離の短い(=画角が広い)レンズというのは、今でこそコンピューターで設計しているから性能が段違いに上がっているが、最初は収差との戦いで焦点の平面性などなかなか望めなかった。

目の前の光景を写真という二次元に封じ込めるため、写真が採用したのはパンフォーカスとは真逆のピント合わせだった。主題となるものにピントを合わせて、その前後は人間の眼と同じくボケて見えるようにする。

だが被写界深度を浅くして一点ピントで主題を囲い込む、という撮り方が多くなると、どうしても似たような表現になってしまい、瑣末な情緒の差異を競うような陳腐化に陥りがちだ。「目にだけピントを合わせて背景をボカして飛ばした愁いを含んだ女性ポートレート」なんて150億枚くらいあるだろう(推定)。

新しいiPhoneのポートレートモードなど、瞬間的に背景と人物を分離して背景をぼかす処理をしているが、背景がボケている=良いポートレート、という記号化が度を超えてしまい、すでにレンズの光学的な理由とは切り離されている。
ボケている理由がないボケ。
はっきりいっていびつな写真だと思う。これはこれできわめて「不自然な」光景である。
まぁ、文句はさておき。

ピントを浅くして主題を浮き立たせるというステレオタイプを嫌っての話だろうが、最近のアート系の写真はおしなべてパンフォーカス&ど真ん中で芸のない構図、という新たなステレオタイプに陥っていた。写真の歴史180年でこびりついた「写真臭さ」を払拭しようとするあまり、新たな陥穽に落ちたのだ。
それはそれで面白くない話ではあるけれど、ただ、復活したパンフォーカス写真たちを見ていると、やっぱりパンフォーカスという手法は「不自然だからこそ」面白いなぁ、とも思う。

一点ピントで撮られた写真というのは人間の目の見え方をある意味模倣しているわけだから、人間の視覚そのものに親和性があるのだが、画面の隅から隅まで焦点があった写真の場合、まず生理的にありえない映像である上に、見る人間の目はパンフォーカスではないのだから、パンフォーカスの画像を一点ピント方式の人間の目がなぞるという、不思議な二重性が生じる。

そもそも眼前に見た光景を記憶の棚に並べる、その「整理(=認識)」の直前に、人間はスキャンするようにその光景をいったん脳内に取り込んでいる。その視覚材料は、まだどこにも焦点を結んでいないし意味付けも行っていないという意味ですべて等価であり、逆の意味でのパンフォーカスと言えるかもしれない。
すべてに焦点を合わせること、イコール、意味の特異点を作らないということ。意味という恣意性から逃げることでもある。

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くだくだとパンフォーカスについて思いつくまま書き散らかしてみた。

特に今回はこれ以上写真のことを語るネタもないのだが(すみません)、パンフォーカスという言葉を聞いて真っ先に思い出すのは、実は写真ではなくて、花田清輝の小説だったりする。本人がではなくて、たしか野口武彦だったかが花田清輝の小説を指して「パンフォーカスの歴史認識」と書いたのだった。

英雄史観という歴史の語り方があり、やれ信長だ、やれ信玄だ、という個人の人格が歴史を牽引したように思えるけれども、実際の歴史は束で動く。土壌ごと蠢いて進む。「どうでもいいような話」の束が、些末の集合が、歴史を動かしてきた。
『室町小説集』や『鳥獣戯話』『小説平家』くらいしかまだ読んでいないのだが、その些末な歴史の描かれ方(笑)の精緻に唸り、退屈し、翻弄され、ときに快哉し、またはぐらかされる。一筋縄でいかない小説世界である。

鳥獣戯話・小説平家
花田 清輝
講談社

室町小説集
花田 清輝
講談社

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でまた唐突に写真のパンフォーカスの話に戻るのだが(いい加減やなぁ)、結局くりかえすが、パンフォーカスというのは視覚的意味の特異点を作らないということであるから、主題と背景という役割分担が失せて、背景の雑情報がそのまま流れ込む。ノイズを受け入れるということである。

撮影者が、撮影時に気づいていなかったものまでが克明に写る。
逆に、情報が精緻に写り込んだ写真を見るとき、いかに普段自分たちが視覚情報を選んで、残りは捨てて生きているのか、ということに気づくだろう。
眼前の視界にはびっくりするくらいの情報が散りばめられているものだ。こんな情報量を常時全部見ていたら忙しくて生きていけない。だからいろんなものをシャットアウトして人は生きている。
写真はそれを斟酌なく拾い上げてしまう。

写真とは、人間の目がお互いに連係し依存しながら感覚を作り出している「からだ」の部分を置き去りにした視覚なのだなぁということが、「不自然な」パンフォーカス写真を見ると、よくわかるのである。

(シミルボン 2017.12)

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