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オニヤンマの爆死


男の子というのはたいてい子供のころは虫が好きと相場が決まっている。その中の何割かが長じてカメラやオーディオや電車や車といったメカ系に走るところをみると、あのメカニックなフシフシしたところところがまず心を惹きつけるんじゃないかと思う。

子供というのは無責任なものだから、その大切なメカを無意識にあるいは故意に乱暴に扱って壊してしまうこともあるだろう。プラスチックや「超合金」(なつかしい)のメカは壊れたらただの部品に還元されるが、虫の場合はただの「部品」ですますわけにはいかない。

道に落ちていた蝉の死骸を気づかず蹴飛ばしてバラバラにしてしまった時のことを思い出す。蝉の胴体というのは中はほとんど空洞で、楽器でいうなら共鳴胴。彼らは樹液を吸って小便をたれるという最小限の器官以外何も持たないガランドウで、要するにただ鳴くためだけに生きているようなものではないか。はじめて蝉の空洞をしげしげ見たとき「こいつら何考えて生きてんだ!? 」と心の底から恐怖を感じた。

僕は小学校低学年以来「生涯虫一匹殺さない人間になるのだ!(ただし蚊は除く)」と高邁な思想を抱き、二十歳を過ぎて飲食店に勤めてゴキブリを(業務上仕方なく)大量虐殺するようになるまではそれなりにその誓いを守ってきた心優しき人間だった。だからこれからの話は人並みに残虐だった友達から聞いた話になるのだが、たとえば彼はオニヤンマをつかまえて爆竹をしばりつけ、火をつけてから空に放し空中爆発させるという残虐非道を行っていたし、蝉の羽と脚をもいでトドメは刺さずに放っておくという「蝉リンチ」なるものも流行っていたという(だから子供って嫌いだよ)。

友人が犯した悪逆の結果を、つまり吹っ飛んだオニヤンマの「部品」を思いながら、次に考えるのは命というもののあっけなさだった。あれだけメカニックで強そうなオニヤンマが、爆竹一発でバラバラになり、ただの部品になる。さっきまで飛んでいたオニヤンマの人格というか虫格というか、それはどこへいってしまったんだろう。オニヤンマの爆死という、今から考えればあまりにイレギュラーな死を、初めて「死」というものを深く考えるにあたってのモデルにしてしまったために、僕はそれ以来生と死の境目というのは劇的な一点であって、すべての死はその瞬間において爆死となんら変わらないのだ、という不幸な死生観を抱くにいたった。

ある一点をもって突然生命が終了する、というのは、実際すさまじい恐怖である。僕は子供のころから(理数系は苦手なくせに)科学的な人間で、あの世とか幽霊とかを信じられる人間ではなかったので、死後の世界などに慰めを求めることができなかった(小学校6年生の時に「科学では説明できない世界がある。科学は万能ではない!」と言い張るロマンチストの友人に、「科学は万能ではないが、間違ってもいない。科学は世界を記述する一つの方法論にしかすぎないが、だからこそ正当性を持っているのだ!」というような意味のことを、もう少し子供らしい表現で言い放った覚えがある・・・笑)。

死ぬといったら死ぬのだ。あとは何にもないのだ、と思いつめて、小学生のガキが眠れぬ夜を過ごしていた。笑いごとではない。小学生だって死ぬのは怖い。

もちろん今でも死ぬのは怖いし、大きな謎であることにも変りはないが、数年前脳死関係の本を読んで、はじめて死にも段階があることを知ったとき、ようやく二十数年前のオニヤンマの呪縛から逃れられた気がした。死は一点ではない。心臓が停止し、脳の血流が止まり、脳が死ぬ。体の機能が停止するので肉体は死に向かうが、その過程は考えているよりゆるやかで、ヒゲも延びるし失禁もする。死ぬことに変りはなくても、ここがその一点、という厳密な境目というのは存在しないのだ。

三十年間悶々と考えてきたのはその境目、オニヤンマの爆死の瞬間だった。オニヤンマの死は不幸にして瞬間だったが、普通の人間は爆死はしない。連続的な死への過程をたどることができる。急激な命の断絶とゆるやかな消滅では全然意味が違うのだ。そう考えるだけでどれだけ気が楽になったことか。

・・・と、ここまで書いてみたものの、ちょっと待て。普通の人間は爆死はしない、なんて簡単に書いたけれども、本当か? そんなこと本当に言えるのか?
爆死でなくてもそれに近い突然死に見舞われる危険は街中にあふれている。世界には実際地雷を踏んで死ぬ人、爆撃されて死ぬ人、自爆テロに巻き込まれる人、交通事故で死ぬ人、突然侵入者に刺されて死ぬ人、等々、「急激な命の断絶」は嫌になるほどニュースに流れている。オニヤンマの爆死は全然他人事じゃない。気が楽になった? おいおい、ゆるやかな死を迎えるなんて、逆によほど運の良い人かもしれない。

もっと根本的なことを言えば、野生の動物の大半は自然死などしない。衰え、最後は誰かの栄養源となる。考えようによっては、誰かに食われることで終わった命は、食った者の血となり体となって命は続いていく、と言えなくもない。
しかし爆死してもゆるやかに死んでも、僕ら人間は焼かれて灰になって、何者かの血肉になることも出来ない。死ぬことに意味すらない。こんなの、爆死でもゆるやかな死でも同じじゃないのか。

話がはじめに戻ってしまった。

毒杯を呷る前にソクラテスは言った。「死が恐ろしいものだと誰が決めた。素晴らしい世界かも知れぬではないか」
そう、僕らが死というものに立ち向かえるたった一つの武器は、僕らは自分の死というものを自分では体験できないという、その一点しかないのだ。自分の死を体験できない、つまり自分は永遠に死なない。いや、死ぬんだけど、それを自分で自覚できない。
その一点だけを頼りに、僕らはこれからも生きていく。爆死したオニヤンマも、彼が知っているのは爆死寸前の世界までなのだ。

死後の世界は、自分では体験できない。想像もできない。想像もできないものってのは恐ろしいから、そこに宗教などが生まれる根っこがある。
自分の命の終わりはわからないものだから、それはとりあえず置いといて、と、今日読んだ本の中で中島らもが言う。命の終わりはわからないから、始まりのことに思いをはせよ、と。命のはじまり、それはつまるところ受精卵なのだが、それ以前は自分の父母の精子と卵子である。その精子と卵子ってのは、まだ僕になっていないものだから、僕の「はじまり以前」だ。死後の世界は不可知なのに、はじまり以前はいとも簡単に到達できるこの不思議さ。はじまり以前には綿々と続く生の海があって、「死はどこにもない」。あ、言い切ってる、中島らも(『僕にはわからない』)。

『僕にはわからない』
中島 らも
講談社

受精卵以前の自分に思いをはせるって、すごいこと考えるなぁ。でもこういう大日如来的な、どっかから来た、的な考え方はいいね。死ぬときも、どっかへ行く、と考えられるからね。全然論理的じゃないこと言ってるな。わかってるけど。

全然論理的ではないが、同じ不可知でも、消滅よりも未生の時間を考える方が心穏やかだ。通ってきたのに知らない、ということと、まだ通らないから知らない、という差でしかないのだが。そして本当はそれは同じことなのだ、やっぱり。

知らないところから来た僕らは、やはり知らないところへ行くらしい。

(シミルボン 2016.9)

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