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ズレを写す (連載「写真の本」5)


数年前の話になるのですが。
わたくし、借り物の大きなカメラが入ったリュックを体の前にかけ、背中には別のリュックを背負い、まるでロボコンのように体をゆさゆさしながら、朝の阪急塚口駅で、閉まりそうな電車のドアめがけ走る途中で・・・

こけました。

・・・・はい。リュック二つ抱えたまま。
しかしさすが借り物のカメラだけに、そのまま前にこけたらカメラにダメージが! と咄嗟に体を右へひねり、地面に左太ももと左ヒジから着地。
激痛に痺れながら体を起こし、左の太ももの痛みでまたヘナヘナと座り込んだところを、目の前で電車のドアはゆっくりと閉じて行き、プシュ~、と馬鹿にしたような音を立てて電車は走り出しました。
先頭車両の横でコケているので、明らかに運転席から僕は見えているはず。それを、無情にも無視して発車する車輌。思わず叫びましたよ。
「F◆ck!」

あそこまで華麗にこけたのは何年ぶりだろうか。
その後肘の打撲痛が長引いて苦労したこともあり、それ以来、自分の身体感覚になんか自信が持てなくなりました。
階段を1段飛ばしで降りたり、よくするじゃないですか。あれってよく考えたら凄い話で、歩幅の間隔だけで正確に階段を飛んで降りる、そういう空間を把握する術を、人間は知らず会得している。

しかしああいう風に派手にこけて怪我までしてしまうと、自分の体に備わっているはずのそういう空間把握能力が、一気に信頼できないものに堕してしまうんです。
止まっているエスカレーターを自力で上り下りするときの、上り始め、上り終わりの、あの歩幅が狂って身体感覚が裏切られる、あの感じ。わかります? 
あれに常に怯えているような、そういうそこはかとない不安感が、しばらく抜けなくなったのです。

ですが。
10日もそういう違和感を抱えていると、そういう自分の体が完全に自分のものではないような、大袈裟に言えば幽体離脱的な(そこまでではない、なんかズレている、という程度なんだけど)感覚を、恐れるだけではなく、なんか楽しみつつある自分も発見したりするわけで、怖いくせに、恐る恐る階段を1段飛ばしで降りてみたりする。自分の体と世界との信頼関係を再構築している感じ、といえば聞こえはよいが、正直もっと幼稚な感覚で、「こけるかもしれない」あやふやさを楽しんでいる、とでもいうべきか。

ところで、このコケたときに抱えていたカメラが、ビューカメラと呼ばれる大判カメラで、昔の写真屋さんが大きな布を被って撮ってたアレ、といえばわかるだろうか。アレなんです。
こんなの。


ああいうカメラはファインダーを覗いてシャッターを切る今のカメラとは違い、カメラと被写体の位置を固定して、カメラ背面の擦りガラス上でピントを合わせ、そのガラスと同じ位置にフィルムホルダーをセットしてからシャッターを開く、という煩雑な手続きが要ります。
その時はそのビューカメラで人物を撮っていたのですが、被写体に「前後には絶対に動かないように」とお願いしなければならないし、こちらも細心の注意でカメラを操作しなければならないし、撮る側にも撮られる側にも、相当な圧迫が加わる。その圧迫が、写真に不思議なひと味を加えるのです。
ピントを合わせる、というのは自分の視神経で目の前のものに焦点を合わせることの模倣のようなものだから、中判カメラ以下のように、焦点が合えば(見る、ということの擬似行為であるところの)シャッターボタンを押す、という流れが自然であるのに、そこからひと儀式待っている、という時間的な隙間、それが、「何かのズレ」を生むのでしょう。なんだかその人を撮っているのだけれど、ちょっとその人とズレた何か、を撮っているような気がしてきて、面白いのです。

写真術が生まれたばかりの頃は、これに加えて感材の感度の低さによる長秒露出の拘束というものも加わったから、撮られた写真も今よりもっと「ズレ」感があったのではないかと想像します。
すぐれた人物写真は写ってる人の内面的なものまでを写し込むことが出来る、というふうに世に言われるし、信じられていますが、実は僕はそんな風には思っていません。どんな優れた写真家も、写すことが出来るのは、その人の表面だけです。
こんなことを書くと嫌われるんですが(笑)実際そうなんです。
こういう人に見えるように撮る、というテクニックとは別の話です。演出や技術の話ではない。

人物写真に定評のある写真家に、僕を撮ってもらうとします。ものすごく思慮深げで、可能な限り男前に、陰影も操作して絵的にも美しく、その人が僕を撮ってくれたとする。そして僕もその写真を気に入ったとする。
撮ってくれたその人が僕にいいます。
「ほら、本当のあなたが写っています」
残念ながら僕は怒るでしょう。
「本当の僕なんて、自分にだってわからない。少なくとも他人のあなたが決めるものではない」
ここには本来多層的である「僕」のほんの狭い一面しか写っていない。
写真は真を写すと書くくせに、決して真など写さない。
真の表面を撫でるだけです。
写真を撮る人に、そういう自覚がちゃんとある人は少ないように思えます。


むしろ、その人がかぶっている、なんらかのズレ感、のようなものを写したい。そう思って、僕は人物を撮っています。僕が写される側に回っても、期待するのはそういう面です。僕が僕じゃないような感じで写っている写真。僕が自分で僕らしいと思っているその確信を揺るがせてくれる、振り幅のある写真。

・・・・・

話が長くなりました。

『ベル・エポック ナダール写真集』
ポール・ナダール
立風書房

ナダール(1820-1910)はサラ・ベルナールやドラクロア、ボードレール、ジョルジュ・サンド等のポートレートで知られる黎明期の写真家ですが、ナダールやマーガレット・キャメロン(1815-1879)の時代の湿板写真は、以前のダゲレオタイプの写真に比べると格段に撮影感度が上がって撮影にかかる時間が短縮(数秒〜十数秒)されたとはいえ、現在の写真のように写される人物の「瞬間を切り取る」のではなく、あくまでもその人から返ってきた光をフィルム上に溜める、という感じに近いのです。

現代のカメラだと、その人の「瞬間」を写してとっている、という思い込みがあります。
瞬間というのは、結局撮影感度が上がった結果、何分もかかっていた撮影時間が数十秒になり、数秒になり、それが現在のカメラでは何百分の一秒、何千分の一秒とどんどん切り詰められていった結果作られてきたものであって、もしかしたら写真の感度が上がってきてはじめて発見された概念なのではないか。

馬が疾走するとき四本の足がどういう動きをするかというのは、エドワード・マイブリッジ (1830-1904) という写真家が12台横に並べた写真機で連続撮影に成功するまで正確には誰も判別できていませんでした。

写真の進歩で人間には「瞬間」というものがあり、その瞬間の集積が時間であるという思い込みが生まれましたが、実は瞬間という概念のほうが写真によって作られたフィクションであるとも考えられるんじゃないでしょうか。
長秒露出で人物を撮影するときに感じる「ズレ感」というのは、本来写真が持つ「光を溜める」という真っ当な感覚であって、現代のカメラで撮る何百分の一秒という「瞬間」の感覚のほうこそがいびつなのではないか。
なんだか最近そんな気がするのです。

(シミルボン 2017.8)

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