【140】辞書から消えた語を集めた辞書から(Les disparus du Littré)

先日買った、面白い辞書が手元にあります。

多くの辞書の編集に携わってきたH.Neefsが編んだ『リトレから消えたもの(Les disparus du Littré)』というその辞書は、19世紀後半に編まれたリトレ仏仏辞典に収録された語のうち、現代の辞書にはもはや収録されていない語を、その語義とともに網羅的に収録したものです。(Cf. H.Neefs, Les disparus du Littré, Paris, Fayard, 2008)

リトレ仏仏辞典は、医師であり、政治家でもあり、辞書編纂者でもあったエミール・リトレによって1863年に出版された辞書です。リトレは実証主義の祖とされるオーギュスト・コントの友人でもあり、コントの著作に関する詳細な解説も書いています。西洋古典にも通じており、ヒポクラテスやプリニウスの訳も出版していました。このように極めて幅広い活動範囲を持ったリトレですが、彼の業績で現代にまで最も強い力を持っているのは、彼の手になるリトレ仏仏辞典ですし、フランス語圏で定冠詞つきでLe Littréと言えば、知的な文脈では即座にリトレ仏仏辞典が想起されます。

そんなリトレ辞典の出版からすでに150年以上経っており、そのくらい経てば当然言語というものは変わるものです。もちろんフランス語は、日本語ほど著しい変化を遂げてはいません。しかし、それでも使われている語彙や表現の点では大きな変化を遂げましたし、使われなくなった語・表現というものもあるわけです。

しかし、使われなくなった語そのものを集めて辞書を作るという発想は、なかなか至りにくいものであるように思われます。

この点、序文において、編者であるNeefs自身が述べている事態は、実に啓発的です。

曰く、新しい辞書が出るたびに、いわば儀礼的な慣習のように、ジャーナリストたちは新語(新しく辞書に収録された単語)のリストというものを求め、公表するのだけれども、辞書編集者は消えてしまったもの・排除されてしまった語・つまり新しい辞書にはもはや収録されていない語について、完全なリストを作るということは全くない、と。

そのようにして消え去る語の数はそれほど多いわけではないけれども、年を・版を重ねるごとに増えていくのですから、リトレ辞典が完成してから現代に至るまでには、当然、極めて多くの語が消え、辞書に収録されなくなった、たいう成り行きです。

実際、今紹介している『リトレから消えたもの』は、1300ページにもわたって、そのようにして消えてしまった単語とその語釈を提示しています。

消えてしまった語には、消えるだけの理由が当然あったはずです。なるほど、編者自身が述べている通り、誤用を咎めるために「その単語は存在しないよ、それは辞書にはない」という言い方をすることはあります。つまり辞書が正しさの基準になる、という面はあります(だからこそ、語義をどうするかという問題は、特に17-18世紀には政治思想上の闘争になったのですし、『百科全書』は検閲・弾圧を受けたのです)。特に私のような外国人が言葉をもちいるなら、規範によって保証されているという意味で、辞書にある単語を積極的に覚えたほうが良い、ということは言えるでしょう。

しかし、ある語が辞書から消えたということは、必ずしも本当に消えて全く使われなくなってしまったということや、現場において使ってはならない、ということを意味しません。

実際に使われているのに辞書からは消えてしまった(辞書にはない)語というものは、実際にはわりとありますし、それは異常なことではありません。

著者が引いている数字をそのまま信用するのであれば、一般的な1巻本のフランス語の辞書は4万から6万の単語を記述し収録していますが、言語学者の見るところでは、フランス語には(固有名詞を除いて、レンマ=見出し語になりうる数にして)600万から800万の単語があるとされています。辞書に収録されていないその数百万の語が、使われていないはずはないのです。

目下問題になっているリトレに即して言えば、リトレはフランス人でさえも19世紀末から20世紀初めのテクストを読むときには非常によく使うものです。リトレを読まなければわからない、文章の意味を正確にかつ十全に把握できないということはしばしばあります。

さらにリトレは、現代のフランス語のテクストを読むときも、大いに役に立つものです。さすがに、あからさまに古い語や古い綴りや古い表現を用いる著者はそれほど多くはありませんが、リトレが提示している少し古い意味を参照したり、少し古い情報を参照したりすることで明らかになるものは、極めて多いのです。

というのも、知的な著者というものは、古いテキストも十分に読んでいるがゆえに、知らず識らずのうちに古い単語や古い用法古い意味というものを体得しているものだからです。日本語の文脈においても、皆さんが体験されていることかもしれません。知的な人間が自然に書いた文章というものは、時折古めかしい文体をとったり、古めかしい言葉を使ったりする、ということは皆さんも経験的にご存知のことではないでしょうか。

こうしてみると、リトレから現代に至るまでに辞書から抹消された語は、それでも確かにフランス語の中に生きている、「リトレから消えたもの」は、消えなかったものと連続的な関係をとりもちながらフランス語を構成している、ということがわかるのではないでしょうか。


この『リトレから消えたもの』という辞書は、もちろんある種の娯楽のために読むものですし、私もさすがにフランス語学は専門ではないので、手遊び程度にパラパラめくって面白がる程度のものではありますが、面白いということは実用性があるということですし、この辞書が教えてくれることは割と多いようです。

この辞書のストレートな面白さは、言うまでもなく、なくなってしまったもの・ないものをあらわにしている点に存しています。

私たちは、あるものとか、手に入れたものについては、敏感になることができます。しかし、ないものについて想像力を働かせるのは、とても難しいものです。想像を働かせる対象がある、ということさえ、意識にのぼりにくいものです。

他人が持っているとか、他の所にはあるとかいうことをはっきりと認識することが出来れば、自分にはない・自分は持っていない(けれどもどこかにある)ものとして、それらのものにアンテナを立てることはできるかもしれませんが、そうした「どこかにはある」ということを分かっていなければ、「存在している」ということにさえ及びがつかないことが、極めて多いように思われます。

辞書の例に戻ればよくわかるかもしれません。辞書を見て、そこにある単語は、たしかに辞書に書いてあるのだから、もちろん「ある」とわかるわけですが、辞書を見てどの単語が存在しないのかを言い当てるのは、難しいものです。

もちろん皆さんがご存知の語が辞書になく、それがたまたま思い浮かぶというケースもあるかもしれませんが、「辞書にないけれどもどこかに存在している、あるいは実際に用いられている語や用法」をいきなり言え、と言われたって、そんなものは意識されていないのですから、なかなか言い当てることは難しいものです。そんなものが存在する、ということに意識を向けることさえ、本当は難しいでしょう。

辞書にない単語が存在している、ということを日頃から鋭く意識し、一冊の本をまとめるための指針にできたのは、辞書編集にながらく携わってきた編者ならではのことでしょう。


これは別にお勉強のことだけではなくて、どんなことであってもそうです。

言われなければ・読んでいなければ、そんなものがあるということにさえ気づかない、ということは実に多いのではないか、ということです。

知らなければもうどうしようもないもの、そういう発想がなければそもそもあることに気づくことさえないもの、全くないものとして扱ってしまう(つまり、まったく考慮することができない)ものが、たしかにあるということです。


話を飛ばすことが許されるなら、他の職種の事情とか、専門的技術を身につけるまでにかかる時間とかいったものも、なかなか認識されづらい。

例えば先日Twitterを見ていて本当にびっくりしたのですが、趣味でイラストを描いている人は、勤め先の上司から、ポスターを30分で描くよう頼まれたりするようなのですね。

あるいは、動画編集を趣味でやっている人が、5分の動画なら5分で作れるだろうと言って無茶な依頼をされる、ということも目にしました。

私は本当に驚きましたし、少なくとも驚くことができました。

いやいや、絵は描くのには時間がかかるし、5分の動画なんて、編集を終えてエンコーディングするだけで下手をすればは5分かかるよ、と。

5分の動画を5分で作れるなら、5分のプレゼンの資料も5分で作ってみてくださいよ、と。

とはいえ、私がそうした「上司」と比べて優れていたわけではありません。私はたまたま動画編集をやっている知り合いがいて、また自分で絵を描くための情報収集をしているからこそ、気づけたというだけのことです。

「上司」の想像力の欠如を責めることはできるにせよ、本当に知らなかったのであれば、ある意味ではどうにも仕方のないことではないかな、と思われるのです。


……とはいえ私も、絵をちょっとは描いてみようかなと思って手につけてみるまで、及びもつかなかったことはたくさんあります。

小さい頃にもほとんど描いてこなかった人間ですから、絵を描ける人のことは異世界人のような感じで見ていたわけですが、描き方の類をいろいろ見るにつけ、彼らとて人間なのだ、ということを知ったという経緯があります。

絵の描き方など色々調べる前までは、高い水準で絵を描いている人というのは、資料などなしに、頭の中に浮かんだものをそのままさらさらと描き起こしているのだと思い込んでいました。しかし、実際いろいろ話を聞いたり本を読んだりしてみると、寧ろ物をよく見て、資料の山から適切なものを選んで、それをよく見て描いている、ということが明らかになってきました。よく整理された資料群を持っていることがプロの絵描きの強みである、ということが、盛んに指摘されていたのです。

もちろん、絵を描いているうちに、頭の中に図書館のようなものが形成されて、頭の中の引き出しを開けるだけで描けるような構図やパターンというものが増えるということはもちろんあるのですが、しっかり絵を描くときには、プロであろうとアマチュアであろうとう、きちんと資料を用意してそれを見ながら描いているのです。

こうしたことを知った時には、なかなか驚いたものです。

極端に言えば、(肖像画とか風景画は別にしても)絵を描ける人がなにかの資料を参照する、という発想がごっそり抜け落ちていたわけです。言われなければ、気づきませんでした。


あるいは、わかりやすい例で言えば、翻訳という営みについても大きな誤解がある、ということは確認済みです。

翻訳のプロは辞書を使わない、翻訳家の仕事部屋には辞書などない、と思っている人のなんと多いことでしょう!

翻訳は、まともなプロであればあるほど辞書をちゃんと使いますし、寧ろ「ここは辞書を引かないと危ないぞ」と気づけることのほうが、ある種の語学のプロの誠実な勘であるように思われます。

もちろん、辞書を使わずに挑める部分が多い、というのも、ある種の能力の高さの証拠にはなりますが、翻訳などになると、結局のところそうした瞬発力よりは、きちんと調べ切ることのできる能力の方が重要であるということです。


皆さんもそれぞれに専門分野をお持ちで、それぞれの分野に対しては、極めて鋭敏な感覚を持っていらっしゃることでしょう。

そしてそれぞれの分野について、理想像や適切な手本というものがあるかもしれません。

その限りで、全て「ある」わけですね。少なくとも、実現されていなくても、何らかイメージの中にある・自分が持っているものに対しては、ある程度は敏感になれるでしょうし、自分が持っていないものについても、他の同業者が持っていたり・あるいは単なる理想像として簡単に思い描けたりする。

つまり、自分にはないけれども他のところにはある、というかたちで、きわめて明晰な、実在に対する観念を抱くことができる。

しかし、異分野のことになると、あるいは現在の自分の業界が立っている過去の歴史のことになると、それは存在しないも同じで、「見えない」ということがあるわけです。

「見えない」というのは怖いもので、簡単にディスコミュニケーションにつながりうるのですね。

過去とのディスコミュニケーションというものは、未来に対してボディブローのように効いてくるものです。ここに、歴史を学ぶ必要のほんのひとかけらがあるわけです。

異分野とのディスコミュニケーションというものは、時に破壊的な効果を招来するものです。上司が部下に「ささっと動画編集しといてよ、5分の動画だし5分でできるでしょ?」と言ったら、職場の人間関係には亀裂が入るかもしれません。仮にプロに依頼するときにそういう態度をとったら、とんでもないことになりますね。

もちろん異分野というものは、関わらないからこそ異分野なのだという考え方もありうるかもしれませんが、仕事に限らず人間関係全般において、我々にとっては「ない」もの、意識することさえ難しいもの、はたしかにあるようです。

だからこそ異分野や他業種については、とんちんかんなことを言ってしまう、あるいは観念してしまうことがあるのですし、逆に外野から自分の業種についておかしな想像をされてしまうこともあるのです。

もちろんそれが笑い話で済めば良いのですが、笑い話では済まない可能性もある、ということは、ワクチンとして覚えておいた方が良いのです。


ないものはなかなか見ることができない。なにかが「ない」ことにフリーハンドで気づくことは難しい。ないものを見るには、それがあったりなかったりすることに関して、極めて鋭敏になりうるような環境に身を置いていなければいけない。

『リトレから消えたもの』という辞書を編集することのできた、そもそもそうした辞書を編もうと考えることのできたNeefsが、なぜそうできたかといえば、日頃から辞書というものに慣れ親しんでいて、辞書を編集してきたからです。少なくとも私には思いもよらぬことでした。

このように、「ない」ということに気づくのは、それがあるかないかが問題になる分野にある程度親しみを持っていないと、なかなかできないことであるからには、私たちが専門外のことについてそうした勘を持とうというのは土台無理なことなのです。


しかし、そうした具体的な感覚を持つことはできなくても、私たちに見えないものが絶対にある、という抽象的な・一般的なルールを覚えておくことはできるしょう。

そうして覚えておくことが、ある種のディスコミュニケーションを未然に防ぐことにつながるのではないかと思われます。

繰り返すのであれば、「ない」ものが何であるか、と言うことに具体的に気づくことができなくても、「ない」ものがあるかもしれない一般的な可能性を想定することができる、ということです。