【155】自分というテクストを繰り返し読む/編む

運動量としてはヨガでほぼ十分だろうと思っていますが、ヨガだけだと現在習っている範囲だけでは動かす筋肉が偏るなと思い、また気分転換に良いだろうなと思い、一日に一度は30分から1時間ほど外をブラブラと目的なく歩きます。

もちろんその途中には、耳にイヤホンを突っ込んで、しかるべき学びとなるような音声を聞きながらやっているわけですが、ともかく散歩をしていると、ときに予期せぬ出会いというものがあります。

出会いというのは、もちろん主に草花や猫や鳥との出会いで、あるいはたまたま足を遠くまで伸ばすと、知らなかった場所に出てしまうという面白い出会いもあるわけですが、一層趣深いのは、よく慣れ親しんでいたはずの場所に、これまであったのに今まで気づかなかったものを見出す、そうした出会いのことです。

住み始めて何年にもなる場所であるというのに、そしてもう何度も何十回・何百回と前を通った建物であるはずなのに、その建物の彫像にふと目が行くということがしばしばです。

フランスの建物は大抵、世紀単位で昔に建てられた建物を再利用しています。内装だけ取り替えて、冷暖房や電気の設備を整えているという感じですね。

私の場合には大学の建物がそもそもそういった経緯を持っていますが、大学だけではなく、街中に立っている集合住宅や、あるいはよほど近代化されたものでなければ、街中の商店なんかも古い建物の中に居を構えていることがほとんどです。

古い建物は石造りで、何らの装飾的意図なしに作られる建物は(少なくとも昔は)ごく稀でしたから、本当はそこら中に古い彫刻が潜んでいるわけです。建物の門の上や脇なんかは、像がないほうが珍しいくらいでしょう。

良く見れば当たり前のことなのですが、あまりにも慣れすぎているからか、なかなか目が行かないのですね。


このように、当然昔からそこにあったはずのものに、初めて見たときには、あるいはある時期までは気づかなかった、ということはしばしばありうるようです。

例えば、哲学でも文学でもアニメや映画のようなテキストでもなんでも良いのですが、1度か2度過去に見たものを、少し時間をおいてから見直すと、新しい発見があります。
 
皆さんにとってもわかりやすいことではないでしょうか。昔子供の頃に見た映像作品をいま見返して、全く同じ感想を持つ人はいないでしょうし、寧ろ当時には気づかなかったようなこと・当時には心を動かされなかったようなことに気づくことは、よくあるのではないでしょうか。

それはきっと、皆さんの人生経験や、他の作品の鑑賞の経験が魂を変化させているからですし、特に重要なものであればあるほど時間をおいて折に触れて振り返ると、新しい発見があるものでしょう。

単なる語学の練習として触れていたような英文であっても、似たようなことはあります。たまたま受験生の頃に(英文解釈の訓練のために)読んでいたウィリアム・モリスなどを今読み返してみると、当時の読みがどれほど浅かったかということを思い知ります。受験を終えてから英語は手を抜いていて、しかもモリスやその周辺の専門的な事柄についてはまったく調べていなこなかったにも拘らず、です。

大学院に入ってから初めて読んだような文章であっても、今読み返してみると、どうして当時はあれほど難儀したのかわからない、ということはあるわけですね。字面を追うのに必死な当時であれば絶対気づかなかったような文体上の工夫や、あるいは単語の慎重な使われ方などに目がいって、より文章を緻密に・立体的に捉えることができるようになっていることを実感することもあります。

このように、何であれ対象というものは、それが価値のあるものであればあるほど、時をおいて振り返ってもなお新しい発見がある、というものではないでしょうか。

ここまではstaticな、つまり単純に言ってしまえば大きく変化することはないような対象について言及してきましたが、同じ事情は人についても言えるでしょう。

ある人と知り合って、その人となりをある程度わかったつもりでも、またしばらくおいて会ってみると、別の側面が分かったり、あるいはもっと深くその人のことを理解できたような気になったりするわけです。

このように時間をおいて振り返るとか、何度も同じように見えるものを反復してみるとかいう作業の中には、単純な発見の喜びや、あるいは広い意味で実利的な読解が深まることを感じる機会が眠っているのだと思われます。


翻って、自分というテクストを読む際にも、同じことが言えるのではないでしょうか。

目標であれ生活であれ、傾向性であれ、こうしたものについてはもちろん自分で考えて付き合っていかなくてはならないわけですが、そうしたものを振り返るためにはそうしたものもまた少し時をおいて振り返ることで新しい発見があったりより実利的に言えば、新しい方向づけを考えたりするのに役に立つはずです。

つまり、一度立てた目的は何度も振り返って、その都度軌道修正するのが良いのでしょうし、自分の性格や自己規定というものも時に応じて刷新されていくべきでしょう。


そもそものことを言えば、こうした作業のために何が必要かといえば、それは自分が自分について与えている記述というものを書き留める、少なくとも言語化しておく作業であるように思われます。

変化が生じるためには、変化の前後の状態が必要ですし、変化・成長を実感してゆくためには、その前段としての現状を知る必要があるということです。

我々は忘れっぽいものですし、形になっていないものについては、長らく心の中に正確に留めておくことはできないのですね。

心の中に正確に留めておくことができないということは、どれほど変化したのかということもわからずにいる、ということですし、以って達成感や成長の実感も、あるいは落ちていることに関するたしかな知も、得にくいということです。

であれば、自分の変化の道行きを知り、あるいは自分がどのように変化していくべきかを考えるためにも、つまり仮設的基準点を作っておくためにも、自分の目標や、あるいは性格・傾向性・欲求などといったことがらについては、定期的に言語化し書き留めるか、何らかのかたちで痕跡を残しておく必要があるのではないでしょうか。

現状に関して記述を行っていくこうした作業もちろん、私のようにある意味で内向的な人間にとっては、一定の痛みを伴った快楽——享楽と言っても良いでしょう——をもたらすものである一方、やはり将来にわたって実利的でもあると思われます。

目下の自分が何をどう感じるか、何を目指し、何を考えているかを振り返ることは、これから何を考えていくべきか・何を考えていきたいかを定める、つまり将来にわたって自分を何度も読み、自分に何度も出会い直すためのよすがになるのです。

新しい自分を発見していくことの中にある喜びを知っていくためには、あるいはその都度軌道修正していくためには、とりもなおさず古い自分がどのようであったかということを一応は記録しておく必要がある、ということです。

もちろんこうした、古くなりゆく自分に関する記述に時間や労力をかけすぎてはいけませんし、かけすぎてしまうとそれはそれでまた別の取り組みになってしまうでしょう。

あるいはあまりにも現状というものに思いをいたしてしまえば、(私のように、というのも無神経な言い方であることは前提するにせよ)否定的な心性の持ち主であれ沼にはまることもありうるかと思われます。

もちろん商業的に日記を得ることができるとか、あるいは自分自身を記述することに或る種のフェティシズムを感じるとかであれば、それはそれで良いのですが、普通の人であれば、ある一定の節度の中で自分の行くあてや自分のやりたいこと、あるいは自分のやりたくないことなどについて記述を重ねていくというのは、それを継続的に進めていくという限りにおいて、なかなか悪くはない準備なのかもしれません。


変化を、あるいは成長を実現するための言説にはいくつもの類型がありますが、ひとつの可能性として、

・現状に関する記述を行う
・その記述を刷新しつづける

という方針を示すものでした。

もちろんこれは、具体的な行動や実践なしには意味を持たないものですが、とはいえ行動をつづけていくためのエネルギーは言語を通して得られるからには、その部分をどうするかということは課題になるわけで、そのためのひとつの解の可能性をここに示した、という次第です。

何度も反省——「反省」は必ずしも悪いことに関わるものではなく、単に省みるということです——を重ねてゆくことが、安定的に変化してゆく——というと矛盾めいてはいるかも知れませんが——ための必須要素ではないでしょうか。

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