【156】敬意を持って人を遇しつつ、口さがない批判は圧倒的な力で踏み潰す

やってみなければわからない大変さというものはあります。

どのような職業に就いているのであれ、あるいはどのような身分で社会において生きているのであれ、それぞれに特有の高度な技能を発揮しているのですし、苦労や悩みというものは尽きないものでしょう。


中学生や高校生の頃は、周りの大人からは悩みなどないかのように扱われることもよくありますし、ひょっとしたらもう大人になっている皆さん自身が、過去を思い返して、あの頃は悩みがなかった、と思われるかもしれません。

しかし、当時は当時で屈託があったはずで、それは生きるか死ぬかの問題だったはずではありませんか。

そんな真剣さを忘れて、「あの頃はよかった」などと思えるのは「成長」のひとつのかたちかもしれませんし、個人で勝手にやるならよいのですが、他人の、しかも目下の若い人たち——いや、私もあなたも若いのですが——の悩みや苦しみをしょうもないものとして端的に切って捨てるのは、強い言い方をすれば、年長者としては相応しくない、誰のためにもならない振舞いでしょう。
 
中学生や高校生の頃、面と向かってそのように言われることもなかったわけではありません。あるいは態度の端々から滲み出るように、大人は苦労しているがお前たちは楽しているのだ、という圧力を感じることもありました(これは被害妄想だと言われればそうかもしれませんが)。皆さんにも、ひょっとしたらそんな経験があるかもしれませんね。

もちろん多くの場合、中学生や高校生というものは経済的には自立していませんが、だから楽だ、ということにはならないのですね。彼らには彼らの生活があり、依存している者には依存している者に特有の悩みや苦しみがあるのであり、それを軽んずることはもちろんできてしまうにせよ、軽んじるのは人間として当然の礼節を欠いた振舞いです。

実益の観点から言っても、良い感情は持たれず、ことによると恨まれますから、絶対にやめたほうが良いでしょう。人間に、しかも自分より後まで生きる可能性のある人間に恨まれるのは、避けるほうがよいでしょうね。

私も、恨んでいるわけではありませんが、「高校生だから悩みも苦労も何もなくていいよね、でも受験勉強は大変かなあ(笑)」という態度をあからさまにとってきた人のことは、今でも執念く覚えています。

こう書いていて我ながら性格が悪いなあと思いますが、深くは言いません。ただ覚えているのです(笑)。


大学生になってからも、似たようなことはありました。ごく僅かな確率ですが、年配の方は現在の国立大学の学費が極めて高くなっていることなども全く知らずに、講義の要求や将来の不安がどんどん高まっていることもご存知でなく、「今の学生は自分で学費も稼がずにプラプラと遊んでいる」というようなことを言って、いらぬマウントをとってくることがないわけではありません。

かくして現実の学生がとは全く異なる「学生」を思い描いているわけですが、今の学生というものの悩みや問題というものを全く考慮することなしに、断定的に先輩風(?)を吹かせることがあるわけですね。

これも正直に申し上げれば、あまり良い振る舞いとは言えないでしょう。


職業に関しても、特有の大変さや困難といったものを全く考慮しない、言ってみれば「心無い」発言というものはこの世界に満ち満ちているわけです。あるいはよく知りもしないで、勝手な判断を押し付けてくる人というのは、いるわけですね。

例えば私がよく知っている範囲では、大学教員というのは非常に楽な仕事であるように今なお思われています。週に5日勤務するわけでもなく、授業と会議以外は明確に勤務時間が定まっているわけでもないので、プラプラしている気楽な稼業だと思われることがあるかもしれません。

しかし、特に現在は会議がどんどん増えています。必ずしもやりがいのある授業だけを担当できるわけでもなければ、(一度も「一般の」就活などしたことがなくても)就職の支援なども行わねばならなかったり、あるいは高校への出張講演なども求められるたりします。その合間を縫って研究をするわけですから、とても楽な仕事だとは言いづらいのではないか、と思われるわけですね。しかも、ふつうは裁量労働制ですから——それが楽に見える原因かもしれませんが——残業代などという概念はありません。

「楽だ」というのは、一面的なものの見方ではないかと思われるわけです。こんなことは、まあ少し調べてみればわかることです。

にもかかわらず、どうせラクなんだろう、という態度をとる人はいないわけではありません。私からすれば驚くべきことです。


もちろん私も、そのような思いなしを、特定の職業については持ってしまっている面があるかもしれません。しかし、そのように偏見を持ってしまっているかもしれないと思っているからこそ、あるいは何も知らないということも自覚しているからこそ、不用意なことを言わずに済んでいる可能性もあるのではないかな、と思われます。

というかそれ以前に、私は特定の技能——それはそれとして極めて汎用性の高い能力だとは思いますが——以外はてんでダメですから、周りで色々に働いている人たちについては、敬意しか持ちようがありません。

スーパーのレジ打ちの方々の魔法のような技術にはほんとうに驚かされますし、タクシーやトラックの運転手がきちんと道を覚えて、集中力を保ったまま運転できるのは(当然のようでありながら)とてもすごいことです。駅員さんや各種の事務受付など、私には絶対にできないことです。プログラミングなどはめまいがしますし(自然言語の修得はわりと得意なのに、計算機言語はどうしてもダメなんです)、戦略的に人に快をもたらすことを生業とされる方々——いわゆる芸人や、或る種の絵描きや音楽家を含めてもよいかもしれません——の、固有の文脈に応じた因果論理の総体としての「センス」にも、いつも驚かされます。「ただの会社員」だって現代ではもはや或る種の素晴らしい選択で、社会の一翼を担いつつ活躍されている方々が様々な環境変化に適応しつつ能力を発揮している様は輝かしいものです。

とはいえ私も勿論限られた経験と視野しか持っていないわけですから、いくら注意してみたって、偏見や臆断を完全に免れることはできません。


調子に乗ってまだ例を出しましょうか。

音楽の演奏だってそうで、管楽器だろうが弦楽器だろうが打楽器だろうが、あるいはピアノだろうが指揮だろうがなんだろうが、特殊な訓練を一定程度積まなければモノになりませんし、どんなに簡単に見えても特有の大変さがあるわけです。

特に指揮については「前に立ってるだけじゃん」と言われがちですが、いえいえ、正確にタクトを振るにも技術が必要です。それに、わかりやすい勉強量で言えば指揮者のそれは凄まじいものです。総譜(全パートをまとめた楽譜)は全部読んで、(初演でもなければ)過去の他の演奏も聴いて、楽団の個別の事情も踏まえたうえでどういう解釈をとるかを決めなくてはなりません。さらに言えば、限られた回数のリハーサルで楽団員と信頼関係を築かなくてはならない。とてもとても大変で、重要な仕事です。

私たちは当たり前のようにプロのオーケストラの音源を聴きますが、その水準で演奏することは極めて難しい、ということを、ともすると忘れがちで、偉そうに「ここは弦のアンサンブルがいまいちだ」などと思ったりすることがあるわけです。

もちろん個人でそう思って、たとえば音源購入の際の意思決定基準にするというのはもちろん良いことです。

しかし、これがある種の傲慢につながってはいけないでしょう。(ということはつまり、外部に表明しない言語の水準でも、あまり否定的な捉え方をするのは控えたほうが良かろうということです。)

弦楽器は、私もほんの少しだけ触ったことがありますが、どうやったらまともな音が出るのか、私には分からないままでした(笑)。もちろん集中して練習したわけではありませんが、少なくとも、ただ音が並んでいるだけですごいことなのだな、と感じたわけです。ハイフェッツが軽やかに弾く動画を見て、あれを当然だと思ってはならないというわけですね。


あるいは先ほどもちょっと触れかけましたが、哲学の研究などというものも、そのように見られがちかもしれません。

全くそういう人がいないというわけではありませんが、哲学の教師というのは学生に妄言を吹き込み、狂信者から金を巻き上げている気楽な連中だ、ということを、ほぼそのまま、親戚から面と向かって言われたことがあります。

ソクラテスも青少年を拐かした廉で死刑になっていますから、或る種の仕方で哲学(研究)に携わっている人は寧ろそう言われて喜んでしまいそうです——このようにソクラテスに形式的に倣うことで喜んでしまう態度こそ非哲学的だろうとは思いますが。

ともかく、その親戚の言うことは必ずしもあたらないわけですね。

私は面倒くさくてその場から逃げたので、その親戚の真意はよくわかりませんし、お酒も入っていましたから、洗練された議論は(試みても)困難だったと思いますが、

大学にいる哲学研究者はだいたい文献研究をやっていますし、そこには積み上げられた学問としての規律があります。もちろん自然科学のようなかたちでの進歩は構造上起こりませんが、それはある意味で、人間が人間を対象とする営みであるがゆえの避けがたい制約であり、自由の可能性でしょう。

自分の考えというか、特定の著者や歴史的文脈に依存しないかたちで、哲学的なことを講義や本として表現するにしても、論理的にきちんと組み立てられた、そして過去の知見に基づいた文章になっている(ということになっている)わけですから、決してラクをしているわけではないのです。

それが結果としてどう見えるかはまた別の問題ですし、よくよく考えた結果として「気楽」だと断じるならばまだわかるのですが、仮にパッと考えなしに断罪しているとすれば、それは果たして賢いことなのかしら、と思われてしまうのです。ましてそれを口にするというのは、かなり多くのものを棄てなければできない選択でしょうね。


……このように、やってみなければ大変さがわからないということは、いくつもいくつもあるのですね。

ですから、受益者ないしは部外者としては、敬意を持ちつづけるということは必要になるでしょう。あるいは無関心を貫けるならそうしてもよいのです。

自分とは異なる立場の人から学び、少なくともそうした人々を敵に回さないためにも、各人には各人の文脈があり、その中で(真偽はともあれ)ベストを尽くしているととりあえずは思いなしたうえで付き合ってみるのが、様々な水準において、賢明な態度でしょう。


簡潔に言い換えるなら、次のように言ってもよいでしょう。

情報やサービスを受け取る側としては、必ずそうしたサービスや情報を与えてくれる相手や、あるいは直接的な関わりはないとしても、見知らぬ職業や見知らぬ専門分野にいる人々対して、少なくともその人達がやっていることが、自分がやっていることと同様に、努力と創意工夫と経験によって支えられた一定程度大変なものであることを知るべきでしょう。

自分にはできず、やる気も起きず、ひょっとしたら価値を理解できないかもしれないけれども、文明・社会において一定の役割を果たしているものであると思って、つまり抽象的に言えば敬意を持って、相手に向かい合うということが必要になるのではないでしょうか、ということです。


翻って、私たちがこうした外野からの詮無き批判、口さがない非難を受ける側に立たされたときに何を思うか、ということもまた、重要であるように思われます。

部外者からの考えなしの攻撃(口撃)は事故のように降り掛かってくる、仕方のないものです。何をやっていたって、ありますよ。

研究者同士でも分野がちょっと違えば異星人ですし、結局のところ共同研究でもなければ作業プロセスは孤独になりがちなので、ろくすっぽ論文を読まず・発表を聞かず、印象だけで批判——ときには誹謗・中傷——する手合はいます(笑)。

とはいえいちいち腹を立てても仕方ない、というか、くだらないことを言ってくる連中に対してくだらないものを返しても仕方がないものです。

「うるせえ、こっちも辛いんだ」と言ってしまいたくなる気持ちはぐっとこらえて、「はいはいそうですね」と受け流すような態度が必要かもしれません。

何より、「俺も辛いんだ」と言い放って自らの辛さを誇示するのは、三島が『愛の渇き』で用いた卓抜な比喩を用いるなら、「傷口を誇示して憐れみを乞う乞食」のようで、あまりエレガントな態度とは言えないでしょう。

それに、詮無き批判の中には時に嫉妬が混じっていたり、あるいは予期せぬ改善をもたらすためのヒントが含まれていたりするので、一概に悪いものとは言えません。

ですから、寧ろ発信者・提供者としては、心無い言葉は都合よく善用するすればよいのです。

あるいはどうしても心無い言葉を受けとるのが嫌であれば、恐らくそうした外野を黙らせる圧倒的な成果を出すための努力を、まずこなすべきではないかと思われるのです。

社会に生きて、何かを価値として提示していかなくてはならない人間としては、この指針はきっと重要でしょう。

(逆に言えば、そうして頑張っていきたいと思えるようなフィールドでこそ生きるのがよいのでしょうし、そうしたフィールドを見つけることにすべてがかかっているとも言えるかもしれません。これはこれで究極と言ってよい問いです。)


私たちは社会にあって、能動的にサービスを提供する側に立つこともあれば、そうしたサービスを受益する側にもなります。どちらか片方にはならない、という人はほとんどいないことでしょう。

少なくともスマートフォンやパソコンを手元に、こうして電脳世界に存在しているからには、望むと望まざるとを問わず、機体を作る企業、回線会社、Webサイトの運営会社、そして書き手、等などと結ばれているわけです。

結局のところ、このようにして関わりあうことにとなる全ての人の立場を理解することはできないのですし、同様に、自分の全てを理解してくれるということに期待をかけるわけにもいかないのです。

であれば、抽象的な言い方になるにせよ、無遠慮な声を善用し、あるいは黙らせるために卓越した成果を挙げつづけ、また自分から無遠慮な声を上げずにいるために精神を戒めることを、習慣とする必要があるのではないでしょうか。

少なくともそうしていれば、無益な争いの数は減るはずですし、また無益な怒りも生まれないはずでしょう。

大きな話にはなりますが、ひとつひとつの場面でそうしていくことこそが、自分にとって心地よい生活空間を築くことに繋がっていくのかもしれません。

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