【143】意志が自由であるからには、早く決断をしたい

注1。理性と意志の便宜的分割は中世哲学に(というよりトマス・アクィナスに)基本的には倣う。

注2。「決断」の概念が哲学史に現れるのは後年のことであり、寧ろ意志の行為(のひとつ)を説明する概念としては「選択(electio)」が用いられる。両者の間隙は大きいが、あくまでも意志の理性的(知性的)欲求としての側面を強調する(中世の)図式においては、意志が自由に、それゆえ理性による規定さえ免れて振る舞う、という瞬間は、必ずしも積極的には説明されない(消極的には、いくつかのテクストにおいて見いだされるし、寧ろfaculty psychologyにおいては自由は否定的に語られるものであろう)。しかし、そこにこそ古典的意味での意志の「自由」の純粋な形態が開示される、という(私の)前提があり、これが即座に説明される。


意志という能力の自由さが、あらゆることを逃れて無規定であるということに存するのであれば、その自由の純粋な形態は、理屈で説明しきれないところでなされた決断においてこそように思われます。

どういうことかといえば、理詰めで「これを選ぶのが絶対に良い」と判断されたうえでなされる決断は、自由な決断というよりは、論理的な推測の派生物に過ぎない、とも考えられるからです。

もちろん、論理的にこれしかないだろう、絶対にこれを選ぶ方が良いだろう、という判断に基づいてなされる選択ないしは決断も、それはそれで意志の自由というものに支えられてなされるものだとは思われます。

が、絶対にこれを選ぶべきではないとわかっているものをむしろ選んでしまった時には、選ぶだけの正当な根拠がないからには、その選択ないし決断の根拠には意志の自由というブラックボックス以外にはなにもなく、それゆえに意志の自由が際立ったかたちであらわれていることになる、ということです。

意志が理性の判断に従わずに選択を行うときにこそ、意志はある種の自由を最大限に顕示している、ということです。


意志が自由であり無規定であるということは、あらゆる熟慮を裏切って決断がなされる可能性が常にある、ということでしょう。

もちろん、熟慮を重ねるほど、意志も提示される選択肢の重み付けに応じて妥当な選択をしやすくはなるかもしれません。

とはいえ、意志は自由であるからには、理性による判断を、究極的には裏切る可能性が常にある、ということです。

であれば——というのもおかしな話ですが——、もちろん熟慮・判断をある程度は行いつづける、ということは前提にしたうえで、意図的に決断の素早さを上げて行く必要があるように思われるのです。

決断を躊躇してためらっていても結局のところ間違った決断をすることがあるのならば、どんどん決断をして前に進む、あるいは世界を広げて行く方が、よほど建設的であるように思われるからです。

そして世界がとにもかくにも広がれば、考えるための手札も増えるでしょうし、決断の精度も上がっていくでしょう。

人間は決断を誤るからこそ、さっさと決断をするようにしなくては、今いるところから動いていけないのではないかしら、ということです。


決断が複数の分かれ道・選択肢——「何もしない」ことも選択肢でしょう——のうちからひとつをたしかに採用することであるとすれば、皆さんはこれまで決断をしてきた時にどこかで必ず思い切ったはずです。

「思い切ったのだ」と思ってはいなくても、理詰めで選びきった、という人は本当は少ないのではないでしょうか。どこかで「えいや」と思い切って、あるいは考え切ることが難しくなって(ときに「もういいよ」となって)、これに決めた、ということのほうが、現実的にはよくあることではないでしょうか。

「決めた」というからには、理詰めのプロセスが最後まで貫徹されたということではなく、何らかの跳躍・ジャンプ・「思い切り」があるということです。思考を打ち止めにして、何かを採用してしまうところがあるということです。

であれば、問題はどこで考えるのをやめるか、体を動かすか、実践に移すか、であるように思われるのです。

そして、そのタイミングは、一般に早いほうがよいと思われるのです。


よく考えて、考え抜いて決断をしなさいと言われることがありますし、それはその通りですが、よく考えて考え抜いて決断をしたところで、後悔をしないわけではありません。

もちろん決断の精度は上がるかもしれませんが、必ずしも後悔しないわけではないでしょう。

よく考えることを、後悔しないことと結びつける言説——「後悔しないようによく考えて決めなさい」というタイプの言い方——が振り出されがちなのは、おそらく、よく考えるのに使った時間を無駄にしたくない・無駄だと思いたくないからだと思われるのですね。

よく考えたのに後悔してしまった場合には、よく考えただけの時間と労力が無駄になってしまったような感じがするからだ、ということです。ですから、「よく考えたら後悔しない、ということにしている」というのが正しいように思われます。

もちろんよく考えた方が良いのですが(笑)、だからといってそれは、後悔しないことを保証するものではないでしょう。ひとつには意志があまりにも自由だから(そうしておかしな決断をなしうるから)です。

また、決断と行動が遅れ、期待されたほどの成果が出せないと、後悔以前の挫折感を味わうことになるかもしれません。

であれば、早く決断してしまった方が良いと思いませんか。


もちろん、繰り返しますが、「考えるな、感じろ」などと言いたいのではありません。ある程度は考えないと、もちろんダメです。

しかし、ある程度のところまで熟慮と判断を積み重ねたのであれば、そこから先は諦めて、自由に委ねて——とはいえ、意志は究極において自由であるとはいえ、やはり理性的判断の影響を受けますが——、思い切って行ってしまうというのが良いように思われるのです。

逆向きに言うのであれば、熟慮や判断に長い時間をかけすぎるのはどうなのかしら、という話です。

可能性を集めて比較考量するということが、概ね理性の機能と言えるかもしれませんし、決断に先立つ理性の機能だと言っても良いかもしれません。が、こうしてあらゆる可能性を集めてくることが癖になると、動かずにいるための言い訳として使われてしまうのではないかしら(実際そうなっているのではないかしら)、と思われるのです。

例えばオークションサイト通販サイトなどいろいろ見て、安い値段の同じ商品を探しまくり、そうして選択肢を増やす、という人は少なくはありませんが、それでいったいどれだけの認知能力と時間が失われているのかということを考えてみてください。ある程度選択肢が出揃ってきた時点でパッと決めてしまうのが良いのではないですか、という話です。


極めて簡単な話をするために難しいことを言ってきたわけですが、要するに如何に熟慮したって、如何に選択肢をいろいろ集めてきたって、私たちの意思というものは、理性が見せてくれる諸々の条件に反するかたちで決断・選択を行うことがあるのだから、選択肢を集めたり吟味に吟味を重ねたりすることはある程度で打ち止めにしてさっさと決断してしまうのがよいのではないですか、ということです。

こう言うのは、考えすぎて行動できない・決断しないという人があまりにも多いからです。マルタン=デュ=ガールの『ティボー家の人々』第1巻の交換ノートでダニエルが述べたのも「僕らは考えすぎる!」ということでしたが、あなたたちは考えすぎているのです。ダニエルが(10代半ばにして老いを感じ)「どうして理屈をこねる代わりに、僕らの魂の力を尽くして生きないのか?」という問いを振りだすことには、なるほどやや行き過ぎたところがあるにせよ、また彼はもっと崇高なものに全身全霊を捧げたいということを書いていたにせよ、考えすぎてはいないか、ということは、幾度も振り返るほうがよいように思われる、ということです。


どこまで考えたって、意志は誤ることがあるのです。後悔はどうしたってすることになるかもしれません(後悔は、選択の誤りというよりは、その人の性格に起因する問題でしょう)。
 
であれば、さっさと決断し、一つのものを終わらせて、新たな世界を開くという方向に舵を切るのも良いのではないか、ということでした。そうしてこそ考えるための手札や素材も増えることでしょうし、より精度の高い決断ができるようになるというものです。