鬼滅の映画観てきたよ!~雪かき、水面と無限列車~

 以下、「劇場版鬼滅の刃・無限列車編」ネタバレあるかもです。

 「冷たっ!」「あっ、ごめんなさい!」
 掛川道の駅で手を洗っていた。11月8日、浜松から静岡へ、鈴木邸探書会へ向かう途中のトイレ休憩。私の蛇口の水がお隣のおばあちゃん(70-80代?)にかかったらしく、「すみません、濡れましたか」とハンカチを差し出すと、「いい、いい!ねえ、その着物、鬼滅?鬼滅の恰好?」
 そのとき私が着ていたのは、赤とピンクの大きな市松を梯子にずらしたお召に、黒と赤の博多織の半幅帯。「いえ、叔母の着物です。あ、そういえば鬼滅のねずこちゃんもピンクの着物ですね~」「そうなのそうなの!」
 水がかかったことは許してくれたようだ。はっと気づくと、私はベレー帽にマスク、その上、車の助手席に座るときのサングラスまでかけていた。怪しすぎる。不審者!
 正直ねずこちゃんについては詳しく知らない。着物はピンクの麻の葉模様だったかな、ぐらい。でも適当に話を合わせたら、そのおばあちゃんは私が悪者ではないこともわかり大変よろこんでいた。

 2020年、日本では「鬼滅の刃」ブーム。近所のメガ・ドン・キホーテの二階にはグッズコーナーが設けられ、twitterで話題になっている。テレビでもその人気、影響力、経済効果などが報道されている。
 踊るのが大好きでも踊らされるのが嫌いなこじらせ女子改めこじらせ熟女の私は、どうせあれだろ電通と集英社が結託して作っているブームだろ、マーケティング戦略大成功ですね!「所さん、大変ですよ!」で、若い女性にいまアンティーク着物ブームが来ている→でもそれはもう前からだし、コロナ断捨離と高齢者の持ち物の出張買取で古い着物があつまったものの、商品にならなかった、価値をつけてこなかった銘仙やウールの在庫の行先を業者がようやく見つけたんだろう、「全集中の呼吸」→総理大臣が盛大にスベってるなー、なんて斜めに見ていた。
 しかし、田舎の道の駅で見知らぬおばあちゃんが見知らぬ着物姿の女に思わず声をかけてしまう、これはちょっとただごとではない。私自身にまで影響が及んできた。これは事件だ!

 10月に公開された「劇場版鬼滅の刃・無限列車編」を観てみたくなった。コミックスは1巻から5巻まできじまっちが貸してくれていた。「俺、正直、鬼滅わからない…これの面白さがわからないのはオッサンの証拠なんだって…」読んでみた。
 舞台が大正時代で、絵柄や衣装の雰囲気がいい。高橋葉介先生や諸星大二郎先生などの、ジャンプじゃないところに作者の吾峠呼世晴先生の作風のルーツはありそうだ。主人公・竈門炭治郎ら、キャラクターもかわいい。
 しかし、「ハマる」まではこの時点ではならなかった。
 キャラクターはかわいい。かわいいのだ、ただただ。魅力的ではあるのだが、それは「萌え」までは行かない。色気を感じない。自分の中に「薄い本」需要が生じない。コミケやまんだらけに駆けていきたい衝動は起こらない。エロティシズムが遠いのだ。
 思うにこれは、主人公・竈門炭治郎をはじめ、人物の年齢が幼すぎるためか。「新世紀エヴァンゲリオン」のキャラクターはやたらエロかったので、14歳の彼らよりも年下だろう。13歳以下か。そんなローティーンいくらなんでもそれはなんでも。私は現在44歳。このぐらいの息子がいてもおかしくない。同年代の友達の息子さんはもう高校生か。作品というより私の歳のせいだな。しかし、幽遊白書やHUNTER×HUNTERのキャラも同じくらいか、富樫先生のキャラはなんかセクシーだなあ、不思議だ。
 口元を隠す女の子の美意識の顕著になっている時流はあるかもしれない。「ざわちん」さんが目元勝負でメイクものまねを始めたのは2010年頃からだったか。女性の自撮りは目でなく口を隠す風潮。そこに登場した、竹で猿轡をした禰豆子のキャラクターデザイン。まもなくコロナ禍、日本人のみならず世界中の人がマスク着用…ファッションとフェティッシュがいい具合なのかもしれない…と徒然に。

 「無限列車を観に行きたいけれど、コミックス5巻まで読んだだけなので、どのへんまで予習したらいいのでしょう?」とtwitterに書き込むと早速「6巻まで読めばだいたいわかると思います。でも5巻でもなんとかついていけるかも」「アニメ版は観てますか?ストーリーはその続きです。Netflixでみられますよ」「日本語字幕つきおすすめです!技の名前などがわかりやすい」と「沼」の住人たちから親切なアドバイス。
 きじまっちに「6巻を利息につけて返すわ」と気前のいいことを言って本屋さんに行ったら…平積み台に、2巻と21巻が僅か、関連書籍が3種類、だけ。

 もういい。見切り発車の無限列車だ!

 11月13日金曜日、朝、夫を送り出してから、トーホーシネマズ浜松の上映時間をチェック。公開当初は「バスの本数より多い」などと言われていたけれど、平日は一日二回、ただ座席数が「密を避ける」ために一つ置きに、一回の入場者数は半分に。土日はまた事情が違うらしいが。客の殺到を見込んでなにか対策がとられる模様。
 スマホで席を予約・カード払いにしたら、時間に余裕ができた。家でお昼を食べて、12時40分の回へ、自転車で到着。
 もぎりのお兄さんに検温を受ける。画面でのスキャンがうまくいかなくて、おでこに体温計をかざされた。入場可。
 お客さんは15人ほど入っただろうか。エヴァの完結編の新作予告などを見つつ、開演。
 物語の設定やキャラクターの背景は、5巻まで読んでいて助かった。グロテスクなホラー描写とかわいらしいギャグ描写のバランスに配慮がなされており、「泣ける」というシーンの演出も見事。家族愛はあまり私の涙腺を刺激しないのだけど。
 炭治郎の妹・禰豆子の帯、あっこれ私の着物の柄と同じ赤ピンク市松!炭治郎の緑と黒の市松模様と、禰豆子の麻の葉ピンクの布は手芸・コスプレ・ハンドメイド界隈で特需とは知っていたけれど、掛川のおばあちゃんは帯に注目していたのか!お孫さんと観ているのだろう。しかし、こんなにブームになっていると着づらいな…次回の劇場版公開時まであの着物は仕舞っておくか…。

 テレビ版の主題歌「紅蓮華」はよく耳にしていた。サビには「夢」という言葉が頻用される。        
 だが、炭治郎には「夢」はない。目的は、人間を喰らう鬼たちを倒し、その大元の鬼舞辻無惨なる者をつきとめて、鬼の血液によって半分が鬼と化した妹・禰豆子を元通りにすること。所属している鬼退治の組織「鬼殺隊」は、非政府組織で人々の間には存在はほぼ知られていない。期待の的のヒーローではなく、人知れず動く存在。ただこれ以上犠牲者が出ないように、ただ妹が元通りになるように。マイナスをゼロに。マイナスをゼロに。
 少年ジャンプの今までの主人公は、みなプラス指向だった。好きな女子の歓心を買うのをきっかけにしてスポーツに目覚める、龍の玉を七つ揃える、海賊王に、俺はなる…みんな大きな夢を持っていた。炭治郎が目指すのは、ただ、「無事」。マイナスベース、ゼロ指向。夢はない。欲もない。(ジャンプらしい夢は、「禰豆子と結婚したい」という善逸、「生物最強の存在になりたい」という伊之助らによって補完されている)そこが、めずらしさをおぼえる清潔さ、清浄さだ。
 劇場版のもう一人の主役・煉獄杏寿郎も、鬼殺隊の最高位「柱」となること、それによって父親に認められることが夢だった。すでに柱になることは叶えられ、父の承認は破れている。ここにも夢はない。しかし戦う。
 煉獄さんが、戦う上で・人として生きるための言葉を遺す。娯楽作品に、なんと道徳的な…ともこじらせ熟女は感じたが、この映画を作っている人たちは、吾峠先生をはじめみんな、夢見がちなのではなく、逆にひどく絶望しているのではないか、と思い至った。これを観ている子どもたちの世界に、いま、大切な言葉は届かない。学校教育の「道徳」の空虚さ、権力者によってめちゃくちゃにされている日本語。親だって躾のできる器かどうかわかったものではない。楽しいおもしろい、わくわくドキドキはらはらするアニメに混ぜ込んで、人が生きるために大事なことを伝えなければ、他に誰ができるというのだ。
 この絶望と希望は、古くは手塚治虫かもっと昔から、子ども向けアニメーションを制作してきた人たちから脈々とうけつがれてきたものなのかもしれない。

 マイナスをゼロに、では「雪かき仕事」という言葉も思い出したりした。内田樹氏が村上春樹論に用いた言葉で、私は歌人の吉川宏志氏の文章のなかで出会った。冬、家の前の雪かきをしないと、雪はどんどん積り、道を塞ぎ、家屋を圧迫し、命に係わる。放っておくと引き起こされる大惨事(それはひいては戦争などの災厄も視野に入る)を未然に防ぐために、毎日の生活のなかで、当たり前の、特別ほめられもしない、ちいさな作業を丁寧におこなってゆくこと。
 そのような価値観の生じた、日本経済マイナス成長ゼロ指向時代の週刊少年ジャンプに生まれた主人公・竈門炭治郎。彼の鬼退治は雪かきのようだ。

 炭治郎があやつる「水の呼吸」、「壱の型・水面斬り」。流動化がすすみ、液状化した現代社会をジグムント・バウマンは「リキッド・モダニティ」と名付けた(森田典正訳、大月書店、2001年)。あるいは「フラット化する世界」(トーマス・フリードマン著、伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2006年)、連想するのは、人間の夢を操る鬼によって炭治郎の眠りの世界に入り込んだ、結核を患う青年が目にした、炭治郎の「精神の核」の在処だ。どこまでも、青空と静かな水を湛えた湖が鏡のようにおだやかに広がる空間。現実世界ではボリビアのウユニ塩湖へいけば見られるだろうか。
 朗読詩人・成宮アイコ氏は「世界は、水面だ」と詠う。この朗読詩は、隣の人が立ち上がった瞬間の小さな風で、机の上に置いていたレシートが地面に落ちた瞬間におりてきた言葉という。(「あなたとわたしのドキュメンタリー」2017年、書肆侃々房)
 わー、文体が評論ぽくなってきた!

 ただ、手を洗っている水がとなりのおばあちゃんに撥ねて、水紋がここまで及んだ。だからやっぱり、雪かき仕事のように手洗いは大事だし、時代は水面になっているよ、とあなたに伝えたくて書きました。


おわり。

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