映画「タゴール・ソングス」~インドの思い出、祖母のこと

 「タゴール・ソングス」、この映画の存在を知ったのはtwitterの、高円寺のカレー屋さんや、民族衣装サリーの研究・創作などをしている方など、私のフォローしているいくつかのアカウントが話題にしており、この美しいオフィシャルサイトを貼ってくれていたところから。映画の紹介、タゴールについての説明はこちらに見事にまとまっているのでぜひ見てほしい。

http://tagore-songs.com/

 一緒にインドを旅した旧い友人に、久しぶりに手紙を書いた。東京都内に住んでいる彼女に久しぶりに会いに行きたかったし、上映館はポレポレ東中野。懐かしい中央線に乗って、カレーを食べて…と計画していたら、コロナウイルス!緊急事態宣言!
 2020年中には、ここ静岡県浜松市から東京への移動はかなわない。そこで、「仮設の映画館」なるものが立ち上がったので、利用することにした。
 Vimeoなるアプリをインストールし、無料お試しコースを選択、チケット代1800円をクレジットカードで支払う。思ったよりも簡単だった。6月8日、パソコンにて鑑賞。月曜日の昼間、おだやかな美しい時を過ごすことができた。
 インドのこと、祖母のこと。いろいろなことが心を巡った。徒然なるままに記しておきたいと思う。

 私がインドを旅したのは1997年9月、ダイアナ妃の亡くなった翌日に出発し、ニューデリー、オールドデリー、アグラを経てジャイプールに着いた。安宿ながらたくさんの花の樹の植えてあるホテルで部屋はあるかと尋ねると、「日本から来たのか。おいで。イギリスの有名な女性が亡くなった。インドでも愛されていた人だ」(英語)といってご主人がロビー(ちっちゃい応接間)のテレビを見せてくれた。「知っています。ダイアナ妃でしょう?」(拙い英語)とテレビを見せてもらうと、そこに映っていたのは安らかに目を閉じたマザー・テレサだった。 

 
 ジャイプール郊外のそのホテルの近所には、掘っ立て小屋のような売店がひとつあるばかりで(ビニール袋入りのパイ菓子を買ったら美味しかった)夕食は宿の中庭で出してくれる。バドゥーくんという小僧が、チャパティやらカリフラワーのカレーやらいろいろ作って出してくれて、ご主人夫妻とわれわれの四人で食卓を囲んだ。
 ご主人は、「内緒だよ、実は私はお酒を飲むのだ。君たちは好きかね?」と、他にはだれも聞いてはいないのにこっそりと打ち明けてきた。yes、off course!とわれわれが答えると、bagpipe whiskeyなるものをそーっと出してふるまってくれた。
 日本の歌を聴かせてくれ、と言われ、友人は、うーんと考えて、大好きな曲である筋肉少女帯の「パノラマ島へ帰ろう」を歌った。それはものがなしい調べだったので、今度は日本の踊りを見せてくれ、とリクエストされた。さあ困った。振り付け込みで覚えている歌などないのだ。記憶を深堀してやっとのこと、静岡市立竜南小学校の「りゅうなん音頭」、これしか踊れない!みんなでつくったおみこしをなかよくかつぐみこしねり…。ご主人はとても喜んでくれた。これは香りだけだよ、と、秘蔵のシーバスを嗅がせてくれた。オレンジみたいないい香りだった。

 日本人が国民全体で共有できる歌、踊りとなると、学校教育に頼らざるをえなくなる。しかしこの友人は、複雑な生い立ちで学校社会とすんなり足並みをそろえて生きてきたわけではない。「複雑な生い立ち」、それは日本には、家庭や教育のスタンダードがなんとなく存在しているからで、インドではどうやらそんなスタンダードも複雑もなにもかもがどうでもよさそうだ、というのが彼女や私がインドに魅力を感じた理由の一つだったのかもしれない。

 ご主人は、私の名前はガンガー・シン、あのガンジス川にちなんだ名前だ、シンというのは貴族の苗字だ、というようなことを話した。血統、階級に誇りを持っていることが窺えた。
 小僧のバドゥーくんのことは「バドゥー!バドゥー!」と、犬を呼ぶかのごとく呼ぶ。おかみさんは白くて毛のふさふさとした犬を飼っていて、その犬のほうが可愛がられているんじゃないかという勢い。インドの人々の間には、時折、歴然とカーストの上下があるということを思い知らされる。

 映画「タゴール・ソングス」では、大学で教鞭を執っている女性から、ダッカの路上にたむろしてフリースタイルラップをしている青年たち、骨董収集家、田舎から駅を見に来る子ども、音楽家とその教え子、女子大生まで…タゴールの歌が階級制度、教育制度、世代、性別などを軽々と飛び越えて浸透していることに目を見張った。初めて出会った人間同士でも共有可能な歌、これは表向きには階級はなく教育が普及したということになっている日本の私から見て、奇跡のように思えたのだ。いまのこの分断とはなんだ、断絶をどうしたらよいのか。インド、バングラデシュが、タゴールの存在によってふたたび輝いて見えた。

 静岡市内の実家に住み、駅の近くでアルバイトをしていた時、早番で午後2時に仕事が終わると、自転車で帰り道にある伯母と祖母の住まいにときどき顔を見せに行っていた。祖母は90歳を超えていて、デイサービスを利用しつつ、認知症などはなく、まあ覚束ないことはあって伯母は苦労していたものの(耳が遠いのに変なところで地獄耳を発揮したりする、大腿骨骨折をして寝たきりになるかと思いきや、怪我をしているのを忘れて歩き回りそれがリハビリ作用となって回復、など、一筋縄ではいかない老人だった)、なんとか穏やかに暮らしていた。
 母もよく会いに行っていたのだけれど、あるときしばらく旅行に出かけていた。

祖母「チカコ(母)はどうしただね。このごろ来ないけど」
私「お母さんはベトナムに行ってるんだよ」
祖母「ベトナムぅ?泥臭いところに行くねえ」
私「おばあちゃん、ベトナムはもう戦争が終わって、今はお洒落な大都市で日本の女の子たちがかわいいものを買いに行く人気の観光地だよ。私はインドに行ったことあるよ」
祖母「インド…タゴール…」
私「えっ?おばあちゃんタゴール読んだの?」
祖母「私、タゴールに会った」
私「ええええ!?」
祖母「女子大に来たのよ。何を言っているのかわからなかったけど、神様みたいな人だったねえ…」

 祖母は明治43年、1910年生まれ。タゴールの初来日は1916年。初、ということはその後も来たということなのだろう。映画の中では、軽井沢で日本女子大の学生たちに向けて話をしているタゴールの写真が映った。あの中に祖母がいたのだろうか。
 祖母はまた、日本女子大の同時代の師範クラスには女優の沢村貞子(1908-1996)がいてねえ、という話も常々していた。もしや沢村貞子も…??
 97歳で祖母が亡くなったとき、紺屋町浮月楼にて精進落としに集まった伯母、叔母、伯父、従姉妹たちから「女子大の運動会に吉屋信子が来てたって言ってた」「庭の白い花のキョウチクトウを、通りかかった牧野富太郎博士に頼まれて一枝さしあげたらしい」などと伝説が飛び出したので私も「おばあちゃん、タゴールに会ったんだって」と言ったところ、「初めて聞いた」「私も!」祖母と同居していてそれぞれ独立した従姉妹二人は、「あの人、話す相手を選んでたんだね。ユウコちゃんになら通じると踏んだんだよ。やっぱりおばあちゃんは頭がしっかりしてたわ」

 「タゴール・ソングス」を観て、祖母の見た「神様みたいな人」の姿を少し掴むことができた。
 たくさんの人たちにとって、神様みたいな人なのだろう。ひとりひとりに神様がいて、「ひとりで進め」と言う。みんなで、ではなく。みんなが、ひとりで。今ある「みんな」と「それ以外」の断絶。それを乗り越えるのは、「ひとりで」、「進め」。コルカタ、ダッカ、シライドホ、東京、静岡、浜松。いま、タゴールとこうして出会えた幸福と運命を想う。



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