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さすがの漱石先生

夏目漱石の『三四郎』を、大学生以来で読み直してみて大きな発見があった。文体がまるで「翻訳文学」なのだ。日本文壇の大御所である漱石の文体は、海外文学の翻訳モノさながらなのである。個人的な感想に過ぎないが、これは大きく衝撃を受けた。わたしはもともと、海外文学の翻訳モノが非常に好みで、理由を考えてみるとさらさらさらと引っ掛かりなく読み流せるのだ。もしかしたら主語述語の関係がはっきりしているから?明確な理由はわからないのだが、日本語の日本文学は細部の表現にこだわりすぎて、まわりくどくなっていたりして、極度に洗練された場合とまったくうんざりさせる場合とに分かれる。それが、漱石の文章にはまったく当てはまらない。

かといって表現が稚拙ということではまったくなく、簡潔な文体のなかに非常に巧い表現で綴っていてうならせる。しかしとにかく、翻訳モノの心地よさなのだ。これは、かつて読んだ学生時代にはもちろん気づくことはなく、それ相応の読書体験の蓄積によって発見できたことだと思うので少しうれしかった。

もうひとつ驚いたのが、「これが明治時代に書かれたものなのか?」と思うほどのわかりやすさ。もちろんときどき、「な、なんて読むの?この漢字」など、独特の難しい漢字は登場するものの、日本語として平易であるし、何よりも若者群像が過去のものではないのだ。すんなりと共感することができる。これが不朽の名作というものなんだな…としみじみ思ってしまう。学生時代は、ミステリアスな女性登場人物がつけている香水の香りが「ヘリオトロープ」という花の香りであったことをやけに印象深く覚えていて、「ヘリオトロープ、ヘリオトロープ…。いったいどんな香りなの?」なんてことばかり思っていたっけ。

さて先日、日光で買った益子焼の素朴な花器に野の花を挿した。理想はその辺でざっくり摘んでくることなのだけど、あいいくそんな環境でもなく。近所の青山フラワーマーケットに手頃な花を探しにいくと、ちょうどよいものがあったというわけだ。

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気づいたのだが、わたしは花器ありきで飾る花を選んでいるようだ。このところはずっと非常に丈のあるベースを気に入っており、花屋で購入するときも「丈はどれくらいカットしますか?」と問われても、たいていそのままで持ち帰るようにして、ダイナミックにぽーんと放り投げて悦に入っていた。今回は、この土っぽさが味を出している小さな花器に似合う花をずっと探していたので、しばらくの間「空き家」状態であったのだ。

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