薄紅は祈りの色【後編】
部屋を後にして、エレベーターで下る。巣の床下、つまり十二層の底から更に下層には洗濯室がある。水回りで省略された洗濯機は、ここに巣全体の部屋数分、設置されている。床下の空気ははカラカラに乾いていて、ここ半日で洗濯しに来た人間はいないと見た。
端末で共有したパスコードでカナタの洗濯機のロックを外し、洗濯ものをぶちまけ、所定の操作の後、人の血を吸っていたなんてすっかり忘れたような布きれが、銀色ドラムの中で熱風に吹かれて踊りだした。
スイールはそのままバスケットの中身をシャワーブースに干して帰ったって良かった。ぺしゃんこなカナタの傍にいたら、なんだか泣きそうだったのだから。けれど、涙まで自動的にしたくなかった。だから、今、カナタから離れてランドリーで回る洗濯物を凝視している。自動的ではなく、自分の意志でカナタに「またね」と言うために。
洗濯室はひどく静かだ。学校は終わったけれど大人が仕事を終えるには早すぎる。こんな中途半端な時間に洗濯をしようという者はスイールの他に居なかった。この巣の住民ですらない。
新型の洗濯機は防音機構が効いてモーター音さえ微かにしか聴こえない。分厚い断熱扉のおかげでバスタオルは音もなく舞い上がっては落ちていく。
(そりゃ、治療とかは自動的でいいかもしれないけれど……、お祈りは? 自動的じゃないっていえる?)愛しさではなく、慈悲でもない、単なる自動的思考。あの祈りがそうではないと、証明できるだろうか? ちょっと自信がなくなってきた。
洗濯機が矩形波で童謡の一節を歌う。乾燥終了。スイールのネガティブな気分を払拭するのには充分だった。乾燥機の扉を開けると、熱い空気と一緒に乾燥剤のケミカルなシトラス臭がした。
そしてカナタの部屋に戻ると、ソファベッドの中には誰も居なかった。キチネットを通ってもシャワーブースに誰かいる気配もない。ふわふわになったバスタオルを片づける。もう二度と使わない、なんてことはないと思う。あと見てないのはアトリエだけだ。
刺繍で重くなってしまったカーテンをめくる。案の定、カナタはそこにいた。「あっ……えっと、帰ったんじゃ……」彼はPVCドレスを纏ったトルソーの前に跪いていた。焦ったように虹彩を左右に動かす。二歳児そっくり。
スイールには言いたいことがよくわかった。“ねえね、おこらないで”と。
「帰ろうと思ったんだけど……」すでに帰る気は失せている。スイールは今カナタがそうしたように、周囲を見渡してみた。
トルソーのまわりにだけ赤と白の斑模様のカメリアが何輪となく咲き誇っている……のではなく、ぐちゃぐちゃに丸まったティッシュペーパーが散らばっている。赤いのは血だ。ドレスを彩る血染めの花は崩れ、筆を引いたように縞模様を描いている。
「手伝おっか、それ」
「えっ……」
「ドレス、なんとかしたいんでしょ?」
短い沈黙があった。その間にカナタの目が潤んでいった。
「でも……、ぜんぜん落ちないし……」
「落としたいのね? ビニールなんだから染みてるってことないでしょ」
今日のスイールはカナタのアパートをくるくる行ったり来たりしている。そもそもビニールなんて洗濯するのもでもない。使い捨てできる道具を並べて二人でドレスを洗う。汚れているのは前身頃だけだし、ホロ箔がついているのは裏側だ。バスタオルを洗いあげた件の洗剤をコットンに含ませ、ビニールの上を滑らせたらドレスはキッチュな艶を取り戻した。
「ほら、なんとかなるでしょ?」
カナタの前髪が揺れた。頷いたのだろう。二人とも黙々とコットンでドレスを撫でた。
「あの」不意にカナタが言った。ドレスに咲いた穢れた花は半分がた枯らしたあたりだ。「なあに?」二人で一緒になにかするのはやっぱり楽しい。
「明日、病院に行かないといけなくて……」
「うん」
スイールは手を止めずに応えた。カナタから二言目は出てこない。ただ単に報告しただけなのか、それとも言葉を探し続けているのか。次第にカナタの手は遅くなり、小刻みに震えだした。スイールはカナタの手を握った。
見上げればカナタは今にも泣きそうな顔をしていた。瞼に溜まった涙が溢れて頬をつたう。
「ごめんなさい……」
もう立っていられないようで、カナタはスイールに寄りかかった。驚く暇もなかった。スイールはカナタを支えきれなくて、結局二人揃ってくずおれた。カナタは今、スイールの太ももに頭を預けている。不格好な膝枕みたいになってしまった。
(自動的にしないと……)
震えるカナタの背中をさすりながら、今日はどうでもいい服を着てきて良かったな、とスイールはぼんやり思った。彼の涙をどれだけ吸っても、生地のことを気にしなくていい。
「救急車呼ぶ? やっぱり今、お医者様に見てもらった方が良くない?」
「ええ……」
「じゃあ、薬は?」
「……もうない」
「は、」
寸でのところで口にするのはやめた。それでも言ってやりたかった。『はあ?』って。嘆息、驚愕、呆然、そういうのを全部混ぜて。
「それで明日病院なのね」(自動的、自動的)
何か動いた感触が、太腿から伝わった。今のはカナタが頷いたことにする。
カナタの耳元で、プリズム螺鈿のビーズで作ったピアスが天井からの無感情な白い光をうけてキラキラ輝いている。丁寧な細工を施した合金粘土製ピアスがジャラジャラ列を成すなかで、それは異様に稚拙な出来栄えをしていた。スイールが作ってプレゼントしたのだった。
スイールは自作のピアスを撫でた。ルミナス・ケモテック社の養殖螺鈿は人の脂を弾き、つるつるした独特な感触をしている。
「明日も登校授業あるし、一緒病院行ったりは出来ないけどさあ」
カナタに言った訳じゃなかった。八割以上自分に言っている。
「祈るよ、カナタが良くなりますようにって」
ピアスは両耳についている。実はさっきから太腿が痛い。カナタがケミカルに頼って今日をやり過ごせないなら、他に何か気が紛れるようなものがあればいいのに。スイールがぐるりと首を回しても、アトリエの床には端切れや糸くずが散らばっているばかりで、役に立ちそうなものがない。
手の届かない作業机の上にミシンや裁縫道具があるけど、それは違う気がする。スカートのポケットの中には洗濯に使った端末があるけど、取り出せるような状況でもない。動画も音楽も写真も娯楽データは全部、あの中なのに。
「ごめん……」
カナタはゆらゆらと太腿から頭を離した。立つ元気はないようで、片膝立ちで顔を覆う。肩を震わせて言うカナタの言葉はしっとり湿気を帯びていた。頬と言わず手のひらと言わずしとどに濡れていることだろう。
(自ど「冗談じゃない」
スイールが言った。気が付いたら声になっていた。もう止まらない。
「あたし、今、あなたをたすける為にここにいるの。泣かせに来たんじゃないの」
背後にあるのは布一枚だというのに、カナタの上半身は、磔にでもされたようにぴたりと止まった。
「カナタ、あなた言ったじゃない。たすけてって。メッセージだったけど」
巣は何て狭いんだろう。「しゅ」とも「ヒッ」ともつかない息を呑む音さえはっきりと聞こえる。
「もういい。もうたくさん。こんな辛気臭いの」
スイールは立ち上がった。滑らかな手さばきで端末を取り出し、バックライトを点ける。
「今からここを、クラブハウスにする!」行ったことはないけれど配信は見た。
カナタはスイールを見上げていた。ずぶ濡れの目に驚愕と怯懦の色を乗せている。この昏い目つきをどうにかして晴らしてやるのだ。
巣の壁というのは薄いらしい。カタナはしゃくり上げながら、お願いだからスピーカーは使ってくれるな、と言った。だから今、二人それぞれにヘッドホンをつけて、同じ端末から音楽を同期受信している。焦りや不安をとろかすようなLo-Fiヒップホップ。リリックの一言もない。アナログレコードじみたノイズは、スプリンクラーの水滴が木の葉を叩く音にも似ている。眠たくなるくらい穏やかなナンバー。
リビングのソファベッドはまだベッド態に開いている。シングルベッドは寄り添い合うには窮屈すぎる。カナタが臥せ、スイールはソファの脚に背中を預けた。
「素敵な曲でしょ?」
マイクに向けた言葉に返事はない。スイールは振り返った。カナタは瞼を閉じて微動だにしていない。立ち上がって彼の顔に掌を近づけて、ただ眠っているだけなのだとわかる。彼のヘッドホンにもマイクはついているはずなのに、それは寝息を拾ってくれなかった。
ここは毛布も省略されている。手当されたばかりの怪我人は分厚いコートに包まれている。これは寝具と呼んでもいいんだろうか。
ガラステーブルに置いた端末から、全方位裸眼立体視のMVがアンビエントに流れ続けている。地上の海。濡れた砂。架空の賽の中で泳ぐクマノミの尾を摘む仕草で再生停止。
その途端、スイールは腕を掴まれた。カナタが目を丸く開いている。カナタはそのままスイールの手を引き、それを支えに立ち上がろうとして、できなかった。ソファベッドに上体を起こして座った。カナタが端によけるのとヘッドホンを外すのとを器用にこなしたので、スイールはそれに倣って隣に寄り添った。
「かえ、……っかえ」
カナタは言葉を切るように深呼吸した。「スイ、帰るの?」
肉声はマイク越しで聞く声よりよっぽど心地良い。音楽の無いリビングに柔らかく残響する。
「うん」スイールは頷いた。
「じゃあ、送る」「エッ」スイールは少し驚いた。
「今、立てなかったのに? カナタ、今普通に怪我人じゃない。大丈夫? ちゃんと休んでたほうがよくない?」
「うん。わかってる」船を漕ぐようにカナタは頷いた。その表情は、さっき鏡の中にいた女子と同じだった。『お願い、どこにもいかないで』だ。
それでスイールは理解した。送らないならここでお別れだけど、送るのなら停車場までお別れは伸びる。
「うん。一緒に行こう」スイールは手を差し出した。
結局、カナタはトラムが来るまでもたなかったけれど。
「全然大丈夫じゃないじゃん」
ぐったりして停留所のベンチに座り込むカナタにスイールは紙カップ入りの茶を渡した。駅前のバーテラスで大人に混じって買い求めたやつだ。
「あの、ありがとう……。大丈夫……ただ寒いだけだから……」
巣を出る前まで寝具にしていたコートのジッパーをきっちり上げてなお、カナタの指先は震えている。構造物の内外で温度や湿気が極端に上下するはずもないのに。
(『寒い』っていうの、博物館の降雪体験室でやったはずなんだけど……)
さてそれはどんな感じだったのか、何年も前のことで思い出すのは難しい。ただ、あの時貸し出された薄い防寒着よりも、間に合ってもいない寝具の方が防寒性能は高そうに見えた。
「カナタ、一人で帰れる? 送り返すのってアリ?」
「ないよ。もうトラム来るから……」とカップごと腕を振る。蓋の先にトラムがもう見える。
トラムが停留所に止まるまでに、例えば、パパとママがそうするように、カナタをぎゅっとハグしてもよかったのかもしれない。スイールが逡巡している間に、トラムは無情にも圧縮空気を吐き出して扉を開けた。
「じゃあね。生きててね」「うーん……、たぶん」
滑るように発車したトラムは緩くカーブを描いて進み、しばらくして停留所は見えなくなった。
ヘッドホンを着けると、汎用端末は来た時と同じように料金警告を出し、二次元画面ではママからのメッセージがくるくるとアニメーションしている。これはたぶん、無視してもいいやつ。やらなきゃいけないのは、鼓膜にスクリーモを浴びせることと、カナタと何か約束すること。
『病院終わったら学校おいでよ。温室で待ってる』
このメッセージは自動的なんかじゃない。たぶん。できないことじゃないから、祈りでもない。
笑う縞猫の絵文字が返ってきた。
【了】