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ミッドナイト・ランドリー【ピリカ文庫】

すすぎの音を立てるドラム式の洗濯乾燥機の中で、元気に泳いでいるのは河童だった。

洗濯槽が右に左に回転するたびに生み出される、ねじれた水流の中をほとんど転がるようにして、河童は短い手足で気持ちよさそうに水を掻いている。ウィルキンソン炭酸のずんぐりとした1Lペットボトルほどの大きさしかないので、河童はまだ子どもなのだろう。マンションの一階部分に完備されたコインランドリーの、二台並べ置かれたうちの右側の洗濯乾燥機を指差しながら、僕は先客に声をかける。

「これだめでしょ」

ベンチに座っていたシイラさんが、スマホから顔を上げた。指の先を目で追い、丸い窓の中でたゆたう河童をしばらく眺め、首をかしげて向き直る。

「どうして。このマンション、ペット可だよ」
「そうですけど。洗濯機で犬とか猫とか、誰も洗ってないですよ」
「当たり前じゃん。彼らは肺呼吸なんだから」
「なに呼吸でも、なまもの入れちゃだめだと思います」
「どうして。ちょうどいいのに」

びっくりしたような顔をされて僕のほうが面食らった。
思わず目を逸らし視線を落とすと、柔らかい素材のショートパンツから無防備に伸びたシイラさんの太ももが、ベンチの上でつきたての餅みたいに広がっている。コインランドリーの蛍光灯のひかりの元でそれらがあまりに生白いので、胸のうちに罪悪感のようなものがわいた。あわてて顔を上げ、三日分の洗濯物を入れたIKEAの大袋をしっかりと肩に掛け直す。化粧気のない顔が不思議そうに僕の返事を待っているのを見て、一昨日おとといと同じ心細さに冷やされた指先が、ちりちりと痺れていく。

初めてシイラさんを見かけたのは三日前、引越し荷物の搬入が全て終わり、最寄りのコンビニに昼食を買いに出たときだった。一階に着いたエレベーターの扉が開くと同時に、集合ポストから大量のきゅうりを取り出しているシイラさんが、僕の視界に飛び込んできた。

意味がわからず、苦手なタイプだとすぐに思った。

慣れた様子で鞄にきゅうりを詰めこみポストを閉じ、シイラさんがこちらに向かって歩いてきたので、エレベーターを降りて足早にすれ違った。扉の閉まる気配を背後に感じて振り返り、誰もいないことを確かめてから集合ポストの前で立ち止まると、さっき開かれていた位置のポストにだけ<椎良シイラ>と手書きで書かれている。

単身者向けワンルームばかりの賃貸マンションで、わざわざフリガナまでふって自分の名前を表記しているのを見て、やっぱり苦手なタイプだと青ざめたような気持ちでコンビニに向かった。ぼんやりしながら冷やし麺のコーナーに行き、棒棒鶏バンバンジーまぜ麺とマヨ付き冷やし中華のどちらにしようか迷ったけれど、両方きゅうりがのっているのを見て、ネギと天かすだけが添えられた温玉ぶっかけうどんを何となく僕は買ったのだった。

「どうして、って。だって、中でおしっことかしちゃうかもしれないし、不衛生じゃないですか」

リズムの変わったすすぎの音を聞きながら言うと、「大丈夫だよ。排泄しない生き物だから」シイラさんはホッとしたような笑顔を浮かべた。

「河童、飼ったことない?」
「そもそも飼えるものだと思ったこと無いです」
「河童ってすごく清潔なんだよ。臭わないし。このセンタッキ、柔軟剤の匂いが残ってたから、終わったらむしろ花の匂いになってるかも」
「そうだとしても、これってなんて言うか、虐待じゃないんですか?」
「え。犬だって運動不足にならないように散歩するじゃん。河童は泳がせてあげると健康にいいんだよ。だからジムみたいな感覚」
「ジム……家の風呂で泳がせたらどうですか」
「水流がないとつまんないみたいで」
「でもこれ、洗濯したい人にとっては迷惑でしょ」
「うん。だから人のいなそうな夜中に来てみたんだけど。左側は空いてるからすぐ使えるよ。わたしもあと五分で終わるし」

にっこりと言って、シイラさんはふたたび手元のスマホに目を落とした。釈然としないままコインランドリーを奥へと進み、左側の洗濯乾燥機に自分の衣類を放り込む。洗剤を入れて蓋を閉め、手持ちの硬貨から百円玉を選り分けていると、ゴンと鈍い音がした。びくりと肩をふるわせて隣の丸い窓に目をやると、河童とともに赤長い影が激しく波に揉まれている。流血かと焦り身を固くしたけれど、よく見るとそれは赤色のブラジャーであるらしかった。

「頭ぶつけちゃったみたい」

間髪入れず音の原因を教えられたので振り向くと、シイラさんがこちらを見てほほえんでいる。ブラジャーを見たことを本人に知られた居心地の悪さと、目に付くところでブラジャーを洗う無神経さに対する不快感が混じり合い、だんだんと腹が立ってきたので、

「ブラジャーに絡まったんじゃないですかね」

デリカシーのない人間を装って、ハツラツとした笑顔で言い放ってみた。
そうなの。あきらかに親近感のこもった声で、シイラさんが嬉しそうに同意する。嫌な予感がすると思った次の瞬間には「絡まって遊ぶの好きなんだけど、ときどき絡まりすぎちゃうんだよね」と笑いかけられ、「色々試したけどブラジャーを入れたときが一番楽しそう」と続けられ、「このブラ紐の形状がいいのかな」と聞いてもいないのに分析を始められた。

「あ、ちなみにそのブラジャーは河童専用のやつね。わたしは一回もつけてないからパブリックな下着だよ。ジロジロ見ても大丈夫だから気にしないで」

最後に意味不明な理屈で話を締められると、タコ殴りにあった挙句に圏外まで投げ飛ばされたような気分になった。会話を続ける気もすっかり失せて、黙ったまま硬貨を入れる。隣を盗み見ると、すすぎの動きを止めた洗濯乾燥機の中で、河童は仰向けで膝を抱えながら甲羅で波に乗っている。

僕は河童の泳ぐ洗濯機で衣類を洗いたくないし、河童を泳がせる住人と遭遇もしたくない。

確かめるように思いながら、洗濯乾燥機の持ち手にIKEAの空袋を掛ける。ベンチではなく家で待とうと出入り口に向かいながら、今週末に洗濯機が自宅に届いたらここを利用することは無くなるだろうと考え、コインランドリー完備の謳い文句に惹かれて物件を選んだ自分がなんだか惨めに思えてきた。一方的に権利を奪われたやるせなさで何か言ってやりたくてたまらなくなり、

「いつもここで、こんなことしてるんですか」

立ち止まって質問すると、シイラさんはスマホをタップしながら首を振った。

「ううん初めて使った。いつもは自分ちのセンタッキで泳がしてるんだけど、もういらなくなるから、きのう人にあげちゃったの」
「要らなくなる?」
「わたし明日引越すから。これからは本物の川で泳がせてあげるんだ。この子ね、生まれたての状態でドンキの前に捨てられてて、それからずっと部屋で育てちゃったから、ただ自然にリリースするだけじゃ多分、死んじゃうと思うのね。だから川に入れるときもハーネスとかつけて、少しずつ、ね。あれ? やばい。タオル家に置いてきちゃった」

ハッとして顔を上げたシイラさんが、スマホをベンチに置いて立ち上がる。

「ごめんなさい。すぐ戻ってくるから、河童のこと見ててくれないですか。もうすぐ脱水になっちゃうから、排水が終わったら停止ボタンを押してほしくて。脱水かけると、怪我しちゃうかもしれない」

早口でまくしたてながら、シイラさんは僕の返事も待たずに走り出て、あっという間に行ってしまった。呆気に取られて立ち尽くし、なんなんだよ。力無くぼやきながら、右側の洗濯乾燥機を横目に見る。無視して帰ろうかと思ったけれど、流血と見間違えたブラジャーの残像が生々しく脳裏を掠めた。仕方なく停止ボタンがあるのを確認し、排水終了と同時に運転を止められるよう正面に移動する。

中の様子を伺うと、河童はうつぶせで手足を広げ、スカイダイビングの動きで水面に揺らめいていた。洗濯槽の底で鮮やかな色を放つブラジャーを眺めながら「こういう色には馴染みがないな」無意識に呟いた途端、やわらかな色を好んで身につけていたほのかの、ホックを止める後ろ姿がガラス面に映し出されたような気がした。

思わず顔を上げると、水嵩が少しずつ失われていく丸い窓に、つい数ヶ月前に三十になったばかりの頼りない僕が映っている。
あの日もしコーヒーを飲んでいたら、今も洸と暮らしていただろうか。
まぶたの眠たそうな顔に見つめ返されながら停止ボタンに指をかけ、彼女が祝ってくれた最後の誕生日のことを思い出す。

「津田くんって、誰のために生きてるの?」

春の海が一望できる、気恥ずかしくなるほど洒落たオープンテラスのレストランで、洸は突然そんなことを訊いてきたのだった。
まだ三月だというのに夏日の気温が観測されて、白い布張りの屋外ソファが真昼の日差しの元で眩しかった。大袈裟な言葉に思わず苦笑すると洸の方はニコリともせず、他人に向けるような目で僕を見るので何が起こったのか分からなかった。

節目の年だからと、僕よりも洸のようがよっぽど張り切って迎えた誕生日だった。

予約が困難だったことが一目で分かるほど盛況したレストランで、好物のハンバーガーはとても美味しく、食べ終わった頃に運ばれてきた誕生日プレートはこそばゆく、食事をしているあいだ中、隣で洸が楽しそうに笑っているから僕はじゅうぶん過ぎるほど幸せだった。

だから、ゆずってあげたいと思ったのだ。

最後のひとくちを口に運び終えたフォークを置き、すぐに荷物をまとめ始めた僕を見て洸は目を丸くした。この席が二時間制であり、まだ三十分も余裕があり、何より今日は特別な日なのだから最後にコーヒーでも一緒に飲もうと引き止める洸に、僕はレストランの前に出来た列がさっきよりも長くなっていることを伝えた。
「食べ終わってるのに帰らなかったら、迷惑でしょ」
そう言って笑いかけた僕に、すっと目の色を変えた洸が投げ返してきたのがあの言葉だった。

「人に迷惑かけないように、っていつも言うけど、津田くんにとって、人、って誰のこと? 結局、誰の顔も思い浮かべられないんじゃないの? この先もずっと、どこにもいない人のことを、私より大事にしそうだね?」

淡々と問いかけて、洸は伝票を手に席を立ち、すっかり言葉を失った僕を置いて会計に向かった。真新しいワンピースが海風に翻るのを眺めながら、「誰のため、って」呆然と呟き、全く状況の理解ができないまま、僕はのろのろと後を追った。

洸を大事にしていない、訳が無いのだった。

だいたい仕事の繁忙期に、しかも自分の誕生日だからという理由で半休を取るなんて、はっきり言って正気じゃない。それでも僕は洸のために取ったのだ。最初に持ちかけられた旅行の話は流石に断らざるを得なかったけれど、せめてこの数時間は仕事を持ち込まないと決め、鳴りまくるだろう社内チャットの通知を切り、スマホは鞄の奥底にねじ込んだのだ。

それでも僕たちは、あの日に終わった。

誕生日の翌週に、ずっと前から用意していたみたいに、三年間一緒に住んだ家を洸はすんなり出て行った。彼女が買った大型家電は僕の不在時に回収され、家の鍵は集合ポストから返された。ひとりで住むには家賃が高くつくので引き払い、単身向けマンションへと移り住み、失った家電を買い揃えた。そして何故かいま、僕は河童の見張りをさせられている。

水が無くなったのを見計らって、停止ボタンを押した。

しんとした洗濯槽の底で、河童はこちらに尻を向けた格好でブラジャーの上にうつぶしている。コインランドリーの出入口に振り返ったけれど、シイラさんが戻ってくる気配はまだ無かった。何かの間違いで自動運転が始まったらいけないので、洗濯乾燥機の扉を少しだけ開いてみると、河童がむくりと起き上がり、丸い窓へと顔を向けた。

「キョッ」

しゃっくりのような鳴き声をあげたかと思うと、がしがしとこちらに這い寄ってくる。びっくりして後退あとじさると、河童は勢いよく丸い窓を皿で頭突いて、扉を中から押し開けた。

「皿って、だいじなんじゃないの?」

どきどきしながら呟いて、洗濯槽のふちで四つ這いになっている生き物と見つめ合う。雨上がりの新芽の色をした顔にぽちりとついた、楕円がかったパールのような真白い瞳があどけない。逃げられたら怖いのでやっぱり扉は閉めておこうと思い、持ち手に手を伸ばすと河童がすばやく立膝をついて、止める間もなく飛び出した。

わあ、と声を上げながら、あたふたと河童を抱き止める。

肉や水分の、体の中にめいっぱい詰まっていることを感じる、ずっしりとした重みがあった。初めて河童を触ったので、どんなふうに抱いたらいいのか分からない。河童の両脇を持ったまま数歩うろついてベンチに座り、仰向けにして尻を支え、甲羅を抱き込むように腕を回してみると、

「キュゥ」

すっかり大人しくなった河童が、やわらかく鳴いて目を細めた。つられてふっと笑みをこぼすと、エレベーターの開く音が聞こえ、騒がしいサンダルの音が駆け足で近づいてくる。

「センタッキ止めてくれた?」

コインランドリーに飛び込んできたシイラさんが、僕と僕に抱かれた河童を見て、すっぴんの顔をほころばせた。

「ダッコしてくれたんだね、ありがとう」

目も口も大きくひらいた笑顔で言い、シイラさんはバスタオルを広げかぶせた手でひょいと河童を抱き上げる。ベンチに立たせ、皿以外をテキパキ拭いてヤクルトを取り出し、シイラさんは上を向いてくちばしを開いた河童の口の中にジャーと一息に流し込んだ。

「河童って、きゅうりとか食べるんじゃないんですか?」
「この子はきゅうり食べないよ。時々くれる人いるんだけど、全部わたしが食べてる。わたしはきゅうり好きだから」

言いながら、満足そうに閉じたくちばしをバスタオルでぬぐってやり、シイラさんが河童を抱いて立ち上がる。

「じゃあね。ありがとう。おやすみなさい」

軽く手を振るとすぐに背を向けて、シイラさんはコインランドリーを後にした。エントランスホールに鼻歌が響き、エレベーターの開閉音がすると、左側の洗濯乾燥機が立てるすすぎの音だけが残された。

拍子抜けするほどあっさり去られて、ようやく僕は自分の腹回りがびしょ濡れになっていることに気がついた。Tシャツに出来た濡れ染みを見下ろし、ついでだからと手のひらも服の裾で拭う。今さらのように妙な匂いが鼻を掠めたので立ち上がり、ほとんど確信して右側の洗濯槽に顔を突っ込んでみると、こけとバターの入り混じったような、しめった生き物の匂いが立ち込めていた。

「くさいじゃん」

思わずこぼした自分の声が鈍臭どんくさく反響するのを聞いた瞬間、何もかもが信じられないほど可笑しくなって、僕は体を折ってゲラゲラと笑った。余分に持っていた洗剤を入れて扉を閉め、次に使う人のために、ポケットから取り出した百円玉硬貨を投入口に放り込む。

腹をよじりながら洗濯コースのボタンを押すと、清流をバタ足で進む河童と、満面の笑みでハーネスを引くシイラさんが、どこかで見た風景みたいに思い浮かんだ。その川はきっと晴れているだろう。いくら泳いでも、くさいと言われたりしないだろう。肩を揺らしてベンチに座り、スマホのパスコードを解いてLINEを開く。

誰のために生きてるの。

名前をタップすると、耳底に洸の声が思い出された。
誰のために。そんな風に訊かれたら、誰かのために、と答えるしかない。その人の顔を僕が知ることはないけれど、その人は必ずどこかにいて、きっと僕と同じように、誰かのために生きているのだと思う。
通話ボタンをタップする指が、緊張で少しこわばっていた。スマホをゆっくりと耳にあてる。

迷惑がられてしまってもいい、河童がくさくて笑い崩れたことを、たまらなく洸に話したかった。

十二時を過ぎたコインランドリーで、それぞれの理由で回り続けるふたつの洗濯乾燥機を見つめながら、ずっしりした何かをもう一度手に抱いてみたい気持ちで僕はコール音に耳をすます。




<了>

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お題「コインランドリー」で物語を書かせていただきました。
白鉛筆さんとご一緒できたのもすごく嬉しい!
ピリカさん、お声がけくださりありがとうございました💛

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