邂逅ビワレイク
年忌を重ねるたびに薄れてゆく夫が、今年はとうとう、人のかたちをした淡い影に成り果てていた。玄関と部屋を隔てる硝子戸の前に立ち尽くす、骨格の華奢な人影は夫であるようにも見えるし、夫でないようにも見える。炬燵で寝そべっていた体をもたげると、透けたり濃くしたりを繰り返していた影が、軽く握った右手を頬にあてた。親指でメガネを上げる、見覚えのある仕草に思いがけず胸が締めつけられて
「わたし琵琶湖いく約束してるから」
突き放すように今日の予定を口走る。十五年前に死んで以来、命日に欠かさず現れる夫を少し持て余していた。姿が現されているだけで口は利かず、こちらの物言いを理解している様子もなく、夫は日が沈む頃には消えてしまう。
のろのろと炬燵を出て、マルシンハンバーグとマグロの刺身を食卓に並べた。
無音で椅子に掛けた人影が、窓から差す白濁した陽のひかりに右側の輪郭を溶かされている。夫が自分の好物にきちんと反応して、旺盛に食べ物をさらう素振りを見せたのは五回忌が最後だった。もう必要は無いのだと思う。思いながらも、不要と定めようとすると躓いたような気持ちになるので、正月の餅や土用鰻と同じ、慣しとして買っている。刺身やハンバーグを手に取る時の、心持ちはとても平たい。平たさはずっと、夫からいちばん遠いところにあったのに。
「箸いる?」
囁くように訊くと影の色が微かに濃くなった。めはなくちの痕跡も無い、白紙の顔面が向けられたけれど、わたしのことが見えているのかすら疑わしい。揃えて握った箸先で、左目のあたりをゆっくり刺す。おもむろに右手を上げ、夫がメガネを上げる仕草を取る。平たさが揺らいで、胸が閊えた。箸を握る手に、ほんの少し力を込めたところでインターホンが響き渡る。時計を見ると、約束の時間を過ぎていた。箸を握る腕をだらんと下ろし「ごめん、もう出るー」外にいるソヨンに聞こえるように声を張る。
◇
「なにそれ?」と玄関で訊かれて「夫やと思うけど、もう分からん」正直に答えると、わたしの背後に突っ立つ人影を見上げて、ソヨンは大袈裟に目を丸くした。
「ご主人死んだんちゃうの?」
「死んだけど命日は帰って来んねん」
「へえ。まじめやねぇ」
感心したように言う、ソヨンの手にはいつものバケツが握られている。曖昧に頷きながらリュックを背負い、靴を履いて外に出た。すうっと後について出てきた夫を見て「ご主人も行きはるって」ソヨンが面白そうに笑う。
三人で、琵琶湖に向かった。
団地の裏から農道を辿り出ると、湖面のあちこちで簡易テントが鮮やかに色を放っている。厚く氷の張った、冬晴れの琵琶湖に降り立った。雪の積もっていない一帯で荷を下ろすと、夫はひとり、湖の先へとふらふら吹き流れてゆく。無視してキャンプクッカーに水筒の湯を注いでいると
「審査通ったで。わたし春から日本人」
アイスピックを湖面に振り下ろしながらソヨンが言った。楽しげに氷を砕く横顔の、上気した頬の濡れたような艶めきは二十代みたいな瑞々しさで、わたしと同い年とは思えない。
「そっか」
目を逸らし俯くと、透明な氷の下で、頭蓋骨ほどの白い気泡が溜息みたいに連なっている。アイスバブルは湖底から立ち昇るガスが閉じ込められ、凍って出来たものだと言う。
「あのひと後ろめたそうに笑うねん。ちゃんと喜んでほしいわ。帰化してほしいって言い出したん、自分やねんから」
ソヨンが突き立てたアイスピックのふちからガスが噴き、手際よくチャッカマンを近づけると勢いよく炎が立った。湯を張ったクッカーを置き、チキンラーメンをそこへ入れる。麺が煮えるのを眺めていると、カムズァンミダ。小さく唱える声がしたので顔を上げた。ぼんやりクッカーを見つめるソヨンに「誰に言うてるん?」そっと訊くと、自分が独りごちたことに時差で気づいたのか、きょとんとした顔を急に綻ばせて
「さよならって、心こめて言うたら、ありがとうになるみたい」
はにかみながらアイスピックでラーメンをほぐし始めた。足元の氷がぐらりと揺らいだような感覚におそわれ目を落とす。青黒い湖の底を覆い隠すように、アイスバブルがどこまでも白く連なっている。隣でキャンプをしていた学生たちが慌てたような声を上げているので見ると、高く立ち上った炎に重なり、夫が盛大に燃えていた。
「ドラゴンボールみたいや」
肩を揺らしてソヨンが笑う。火を纏った人影がメガネを上げたので思わず吹きだし、「ごめんなぁそれ夫やねん」学生たちに向かって声を掛け、ものすごく久しぶりに、腹の底からわたしも笑う。
◇
氷上で火遊びを繰り返し、空のふちに琥珀色が立ち込め出したころ珈琲を淹れた。
伏せたバケツに掛けたソヨンが「あんな色のドレスもええなぁ」夕焼けを見上げて呟いたので「似合いそうや」素直に頷き、立ったまま珈琲を飲んでいると、正面からゆらゆらと夫が寄ってくる。このままやと通過されそう。思って少しこわばったけれど、深呼吸して力を抜いた。近づいてくる淡い影に十五年前の面差しを映しながら、夫に重なり目を閉じる。
わたし、変わったやろ。下っ腹出て胸も垂れて。でもやらかくて優しくて、ええ身体してるやろ。
水の中を揺蕩うような眩暈の中で、ゆっくりと心を浮かべた。眼裏に炎の残像を見てくちびるをひらく。自分のこぼした言葉に夫の声が重ねられた気がして目を開ける。日が落ちた琵琶湖の対岸の街に、灯りがともり始めている。
(了)
高橋源一郎さんが選考委員をなさっている「小説でもどうぞ」に応募したものです。
選には漏れてしまい残念。受賞されたみなさまおめでとうございます!
2月末締め切り、お題は「ありがとう」でした。
数日前にYouTubeで見かけ、「邂逅」という言葉に惹かれて再生したら、今回の作品で描きたいなぁと思った(けど描く技量がなかった)世界が音楽の形で広がっていて、プレゼントをもらったような気持ちになりました。《陰陽師0》見たくなってきた…
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