波乱人生ーギャンブル依存症旦那、食べ物がなくなる


伊丹市で3人で暮らし始め、今回すぐに旦那はIT系で働き出した。

人手が足りないからか、すぐに仕事にはつけるが、

なんせやめてしまうし、給料をパチンコ、パチスロに使ってしまう。


使っては、もうしないと泣いて謝る。



私も、体が動かないことも多く、意識も薄いので

お金を管理しきれなかった。


離婚した方がいいのはわかってはいるが、


誰一人、頼ったり話したりできる人がいなく、

多分、自分でも不安で踏ん切りもつかなかったし

娘から父親を奪うようで、別れなかった。

完全な共依存の完成だった。


電気やガスが止まることがよくあった。

携帯も払えずにそのままにしたものが3社ある。

この頃は私の名義が全て汚されていった。


食べ物も普通に買えず、

蒸しパンのようなものを作って、娘に食べさせることが多かった。



旦那は、娘をすごく叱りつけることがあった。

「そんなことするなら、ここに入っておけ!!」

と押し入れに閉じ込めたり、人間性を否定するようなことばかり言う。


娘にすることだけは許せなかった。


その度に、やめさせ、

娘が寝たら、何時間か説教をした。


それによって、何かあっても

娘を叱ることは無くなった。


夫も、そうやって否定されて過ごしてきたんだろうと思う。

ただ宗教を拒否したがために

出来損ないにされてしまったのだから。



夫は、ひたすら嘘をつく。

嘘をつく必要のないことも嘘をつく。

完成度が低いので、すぐ辻褄が合わなくなる。

猛烈な逃げ癖もある。

仕事から、責任から、何もかも逃げて放棄する。


宗教の集まりに連れて行かれたくなくて

嘘をついて逃げたり、

隠れたりしていたらしい。




役所にいった時に、子育ての課があり、

何度が生活ができていないことを相談もしていた。




伊丹に来てよかったのは、

良い心療内科に会えたことだった。


その先生は、しっかり顔を見て話してくれた。

そして、体調を見ながら

増えすぎた薬を減らしていってくれた。


どんどん、意識がはっきりしてきて

動ける日も増えてきた。



なんとかギャンブル依存症を克服できないかと色々試した。


時には、一緒に行って、

予算だけで帰る練習をしたりもしたが

全くダメだった。


自助グループも、行くと言っては行ってくれなかった。



程なくして、旦那は仕事をやめた。

会社から罵倒され、

家にまでしつこくピンポンを鳴らしにきていた。


今でも、チャイムは私も娘も怖い。


借金取りや、こういったチャイムに隠れることが多かった。


押し入れの中で、娘が怖くないように

色々お話をしていたが、それでもトラウマになってしまっている。



仕事をやめ、失業保険で暮らし始めた。


家賃が7万近く、失業保険が14万くらいだっただろうか。


残りもすっと持ち出されて、パチンコに消される。


朝起きたら、お金も旦那もなかったり

色々な手口で、お金を使い果たす。



だんだん過度になってきたある日、

失業保険が出た日に、


全てをゼロにしてきた。



ーーーだめだ。食べ物が今月買えない。このままだと娘が死んでしまう。ーーー


旦那に

「離婚するわ!」と言ったら


「子供はお前が育てろや!!!」と怒鳴ってきたので

カチンときて

殴ったが

力もなく、眼鏡が飛んだだけたっだ。


もっと、こんな日が来るなら

旦那をKOするくらいに鍛えておけばよかった。


随分離婚に時間がかかってしまった。

娘が小学校1年だった。




すぐに役所に行って泣きながら話すと

役所の人は、すごく感情もなくサバサバしていた。


子育て課のおばさんもきて、

「まだ予算あるし、いいですよ。いったんホームレス扱いにしますね。」


そう話し、色々手続きが始まった。


娘はいったん、施設に行くと言うが

このまま、引き離されて会うことができなかった。



ビジネスホテルの1泊代金を渡され、

夜に街を見ていると

娘が助かったのだとホッとしたのと

娘を自分の選択のせいで酷い目に合わせている責任に押しつぶされそうになった。


車に飛び込んで死のうか迷ったが


私をひく車に申し訳ないと止まることができた。


小さい頃から、迷惑をかけるとボコボコにされていたのが

効いたのかもしれない。



その後、私は心療内科にしかかかっていなかったので、

その先生のツテがある精神病院に移され、

生活保護が降りるのを待つように言われ


山奥の病院に置いて行かれた。



そして、なんと閉鎖病棟に入れられてしまったのだ。




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