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大事なことは父がおしえてくれました
こんなこと言うたら怒られるけど、父親が亡くなった時、ほっとしましてん。
それまでずっと頭の上に乗ってた錘が取れた氣がしたんです。
私の父は福井県の田烏という小さな漁村に生まれました。
田烏は小浜からローカル線に乗って「大鳥羽」で下車、そこから一里(4km)の山を一つ越えたところにあります。
今ではトンネルができ、車で10分ほどで行くことができますが、当時はこの峠を越えることが、どれだけ大変なことやったか。
父は10人兄弟の末っ子。
上のお兄さん、何人かが漁師をしていて荒れた海で亡くなってはります。
その時、村の半分くらいの男の人が亡くなったと聞いてます。
すぐ上のお兄さんは、それをみて海に出ることは辞め、当時、誰もが嫌がった大八車を引く仕事を始めはりました。
その頃は、跡継ぎの長男と海に出る者以外は、食いぶちを減らすために家を出ました。
男の人は、ほとんどが京都へ丁稚奉公に。
大きなお家で丁稚奉公して、そのお家の分家になることを夢としはりました。
女の人は、紡績工場か、行儀見習いいうて、大きなお家のお手伝いさんに行かはりました。
そして、そのお家からお嫁に行かしてもらうことが一番の出世でした。
そうして故郷から出る時、山の峠でお母さんから“お箸一膳”を渡されたといいます。
「これであなたは生きていきなさい」と。
高等小学校(今の中学2年)を出た人もいれば、尋常小学校を出てすぐの人もいはったんです。12歳え。
6・3・3の教育制度になって、中学まで義務教育になったのは戦後のことです。
今の世の中とは偉い違う話やけど、テレビやドラマの話違てホンマの話なんえ。
そこから、財を作ること、家を作ることを心に、それぞれの人生を歩み始めはったんです。
父も漁師にはならず、京都の大きな紙問屋さんに丁稚奉公に来はりました。
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