家族というもの

ある日、いつものように母と買い物に出かけた。必要な食材をカゴに放り込み、レジを通って会計をする。買った物をエコバッグにぎゅうぎゅうに詰め込んで、入りきらなかった物は予備のエコバッグへ。二つのエコバッグをカートに乗せ、出口へと向かう。カートを元の置き場に戻すときに、ぎゅうぎゅうに物が詰まった、重たい方のエコバッグを取ろうと、手を伸ばした。

咄嗟に母が言う。「それは重たいよ。こっちを持ちなさい。」言い終わらないうちに、母は重たい方のエコバッグを持って、さっさと出口へ向かっていった。私は少々戸惑いながらも、残された軽い方のエコバッグを掴み、母を追った。「私のほうが明らかに力持ちなのに」と、不思議な気持ちで母の後ろ姿を見る。颯爽と歩く母の姿。無理をしているわけではなさそうだが、「こういうときは私に任せたっていいのに」とも思った。しかし、いくら私が大きくなろうとも、母の中ではずっと、「小さくて頼りない娘」なのだろうな、と勝手に納得もしていた。

このような場面で、私はよく「家族」というものを実感する。家族愛とでも言うのだろうか。母は私の前で「母」という存在でいられるし、私も母の前では「娘」でいられる。お互い声に出して約束したわけではない。たくさんの思い出を共有しながら、定着していった見えない役割。その役割をこなすことで深まる関係性。その関係性は思わぬところで、気まぐれに顔を出し、時には大きな力や生きる活力を与えてくれる。「小さくて頼りない娘」としての私は、あのとき、何か温かくて大きなものに守られている気持ちになった。

ふと、亡くなった祖母のことを思い出す。遊びに行く度に玄関で到着を待ち、私がドアを開けた瞬間、これ以上の幸せはないといった笑顔で迎える。私の頬を両手で包み、パン生地のようにぐりぐりとこねくり回す。それは私が大人になってからも続いた。そんな祖母が私に、やはりこれ以上の幸せはないといった笑顔で言ったのであった。

「あなたはね、ずうっとずうっと私の孫なの。大きくなってもずうっと、小さくて、可愛い可愛い私の孫なの」と。
それは優しいおまじないのようだった。今でもずっと、心に残っている。

「祖母」と「孫」、「母」と「娘」。それは揺るぎない事実なだけなのに、温かいブランケットのように私を包むのは何故だろう。

そのブランケットに包まれて、見えないゆりかごの中で心地よく笑っている。この先ずっとこれでいいのか、少し不安になる日もある。いつか私も誰かの「母」に、なるのだろうか。

2024/03/03 文章教室提出

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