見出し画像

桜は、見上げるものなのだ

桜の記憶が遠い。

「時期的な」というぼんやりした理由で忙しい日々を過ごし、「自粛期間」という謎の時流によって家の外の景色に触れる機会が減った、去年の春の記憶が薄い。

そして、去年の桜の記憶が遠いことに気付いた。

これまでは毎年、三寒四温の波を乗りこなしていくうちに自然と桜へ気が向いて、つぼみを見ては開花までの日数を思い、開花から満開までのプロローグを思い、満開を迎えた空を埋め尽くす春の脈動を思い、お花見をいつどこで誰とやろうかなと考えるだけで胸が高まるのがこの季節の楽しみだった。

お花見はいつの頃からか人が人を呼んで50人くらいになったこともある。中には初めてのお花見にはしゃぐパリコレモデルも混ざってたりして、咲き誇る桜の下で様々な交流が生まれたし、楽しかった。

それとは反対に、夜の公園の池のほとりで一人静かに桜と向き合うお花見も好きだった。運が良いと水面に映る満月と桜を独り占めできるという、時間の経過がただひたすらに心地良い空間を満喫できるお花見も、自分にとって必要な季節の過ごし方となっていた。

けど、去年の桜の記憶がほぼない。確かにニュースなどではどこで開花した、どこが満開だという情報は入ってきたけど、あの自粛ムードの中、多くのソメイヨシノ達は生まれて初めて「見られない」春を過ごしたのではないかとさえ思う。

自粛ムード、日々伝えられる感染者数、不慣れなリモートワーク、マスクや日用品と食料品の買い占め。誰もが先行きを見通せず、確かなのは二度と日常には戻れない感。3.11の直後にも感じたことだけど、今回は目に見えないRNAが世界を変えるという未曾有の事態。

いつも季節が大きくうねりながら塗り変わっていく春が、それ以上にざらざらした感触と薄くて軽くて重たい空気をまとっていた。

その頃の数が多くはない桜の記憶は、一日中リモートワークで夜になって初めて散歩に出た時の、路上の桜だった。漆黒のアスファルトの上、街路灯を反射して輝く白い花びらを見て「そうだ、桜の季節だった」と思い出すのが精一杯だった。その時のコントラストはまるで宇宙の星々のように覚えている。そしてちょっと、桜のことをすっかり忘れていたのが申し訳ない気持ちだった。

下を向くというのは、物理的にも心理的にも下がるもの。疲れていたり悩み事があると自然と視線が水平より下に向いてしまい、物理的な向きが心の向きまで導いてしまうことがある。スマホは別としても、ダメだった日の帰り道で、一人残されたカフェの席で、気持ちが晴れない時には気付くと下を向いていることが多い。

そんな時に桜を見ると、見上げると、なんだか共感してくれているような感じで下を向いた心が中和されて、なんだか楽になる、そんな感覚があったことを思い出した。

たった一つのDNAから複製されて咲き誇るソメイヨシノを見上げていると、今までどれだけの人がその下で生きてきたのだろう、どれだけの人がそこで喜び、悲しみ、しんしんと咲く桜に思いを乗せてきたのだろう、そんなことを考えてしまう。そして、自分の存在もその大きな流れの中の一つでしかないことを知る。

桜はやっぱり、見上げてこその桜なんだ。
枝の上でみっしりと咲き誇る桜を見上げて、思い、在るように在ることを知る。

みんなが持ってるあの日の記憶も、きっと見上げる桜に彩られてたと思う。舞い散る桜の記憶と共に一歩前へ進んだあの日、桜を見上げて空を仰いで何かを思い、そうやって前に進んできたはずだ。そして今もみんな、前に進んでいく時だと思うんだ。

桜はやっぱり、見上げてこその桜だ。今年はちゃんと、桜と過ごす時間を作ろう。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?