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松本サリン事件と、もう一つの冤罪事件

松本サリン事件が起きたのは、1994年(平成6年)6月27日の深夜。今年が30年目に当たります。
第一通報者で、家族ともどもサリンの被害にあった河野義行さんは被疑者同然の扱いをうけ、逮捕や起訴はされませんでしたが、広義の意味でいう冤罪の被害者となりました。
ところでもし、あなたの身近な人、知り合いが事件の犯人だと言われたら、あなたはどう考え、行動をするでしょうか。
30年前に河野義行さんの同級生から聞いた忘れられない出来事があります。


河野義行さん犯人説で突き進んだ警察と報道

30年前の事件であるため、まず簡単に事件の概要をおさらいしておきます。
松本市に食品工場を建設しようとしたオウム真理教は、その契約を巡って裁判を抱えていました。判決は教団側に不利が予想され、その前に松本市内の裁判所宿舎をサリンで攻撃することを企てます。
6月27日の22時すぎ、宿舎近くの駐車場に車を停めサリンの噴霧を開始しました。これにより、河野義行さんの自宅のほか、企業の社員寮やマンション、アパートに被害が広がり、一夜にして7名が亡くなりました。
28日には長野県警が殺人未遂の捜索令状で河野義行さん宅を家宅捜索して、農薬を押収するなどしました。
新聞各紙は28日夕刊で事件を大きく報じます。翌29日朝刊では朝日新聞が「会社員宅から薬品押収 農薬調合に失敗か」「ナゾ急転隣人が関係」「薬品会社に勤務歴」、読売新聞が「通報の会社員宅捜索」「本人は入院中 除草剤調合ミスか」「『あの家が…』周辺住民あ然」と大きな見出しで報じるなど、事件発生翌日には河野義行さんを犯人視する報道が相次ぐことになりました。

朝日新聞 松本サリン事件 1994年6月29日朝刊
読売新聞 松本サリン事件 1994年6月29日朝刊

自分は無能な記者なのではないか

30年前、私はとある雑誌の編集部にいました。事件発生後、事件取材や警察情報に強い敏腕記者たちが松本に向かいました。私は後輩と一緒に、河野義行さんの生い立ちや人物像をさぐる周辺取材の担当となりました。
河野さんは愛知県豊橋市に生まれ、京都で就職していました。しかし、京都の化学薬品会社の工場を訪ねてみると、河川敷のような寂しい場所のとても最先端とはいえないような工場で、大量殺人に結びつくような危険な薬品など作れそうには見えませんでした。その会社の経営者、その後の転職先に河野さんの人柄を聞いても、真面目で評判が良く、聞けば聞くほど犯人像から離れていくように思えました。
豊橋で後輩と合流し、河野さんの同級生の話を聞くことにしました。京都から豊橋に向かいながら、自分は重要なことが見えていない無能な記者なのではないか、という思いが浮かんでは消えました。

河野さん同級生の衝撃的な証言

豊橋市(2016年撮影)

最初に訪ねた自営業の同級生に、「様々な報道では河野義行さんが犯人であるかのように言われているが、京都で話を聞いてみるととても凶悪事件の犯人像とは結びつかない。自分の心証は今、半々です。同級生の方が知っている河野さんのことを、率直に教えて欲しい」と訴えました。
すると、時間を取ってあれこれ話を聞かせてくれただけではなく、「他にも話を聞きたいか」というのです。「もちろんです」と答えると、早速どこかへ連絡を取ってくれました。
訪ねていったお宅は、同級生で結婚したご夫婦だったと思います。さらにそこに、別の同級生も駆けつけていました。3人が代わる代わる、高校生頃の河野さんについて語ってくれました。
卒業アルバムに載った修学旅行の写真は、河野さんだけが大人びたコートを着ていて、人柄を思わせました。
もう充分にお話が聞けたと思って辞去しようとすると、「まだ話を聞きたいか」というだけでなく、「県警の同級生も紹介しようか」とまで言われました。さすがに、これはおかしいと思いました。通常、事件取材で容疑者と思われる人物に親しい周辺人物に聞き込むと、嫌がられたり、邪険にされるほうが当たり前です。
「なぜ、ここまでしてくださるんですか?」と聞くと、意外な返事が返ってきたのです。「以前に同級生が冤罪事件に巻き込まれて、そんな人間じゃないって、みんなで駅前で署名活動をやったりしたことがあるんです」。
私は言葉を失いました。
同級生の一人が、日本中を震撼させる大事件の犯人ではないかと疑いを掛けられている。それだけでも、多くの人の人生に一度たりとも起こりえないような大事件です。なのに、これが同級生で二度目の冤罪事件になるかも知れないとは、どういう運命の巡り合わせでしょう。
その事件の概要というのは、とある商店の従業員が夫の不在の夜に妻と家族を殺害したというものでした。
しかし、取材の本筋は松本サリン事件です。締切に間に合うように取材原稿を編集部に送らなくてはなりません。「そんなことがあるのだろうか」、と思いつつも、深く尋ねる余裕もなく取材を終えたのでした。

見つかった冤罪事件

あれから30年。おそらく、これではないかという事件が見つかりました。
名古屋地裁豊橋支部の判決が出た1974年(昭和49年)6月12日。各紙が夕刊で大きく扱っています。特に毎日新聞は一面トップの扱いで、「『物証なき殺人』無罪 豊橋・母子三人殺し」「自白の信憑性薄い」といった大見出しとともに報じています。朝日新聞、読売新聞は社会面ですが、朝日新聞は「物言った 元捜査係長の“勇気ある証言”」「潔白信じ証人に 『あのままでは一生の悔い』、読売新聞も「実った勇気ある証言 無罪を喜ぶ“造反警官”」と、事件の特別捜査本部係長だった人物が捜査のずさんさを証言したことを伝えています。
この後、同月26日には、名古屋地方検察庁が控訴断念声明を発表して、被告人(25歳)の無罪が確定しました。
判決を受けてこれほど大きく無罪が報じられた事件ですが、実は発生当時は全国紙の扱いはなく、まったく無名の事件だったのです。

強引に作られた自白証言

「ほくそえんでいる真犯人は別にいるんです」と元係長(朝日新聞1974年6月12日夕刊)

事件の概要は、「ジュリスト」(1974年11月1日号)で、弁護人であった郷成文弁護士が執筆した「『豊橋母子三人殺し』事件における自白の信用性と任意性」という記事に詳しく記されています。
事件発生は昭和45年(1970年)5月15日午前1時40分頃。豊橋駅にほど近い八通町で商店の出火が通行人により発見され通報されました。火事はほどなく鎮火されますが、全焼した二階から、電気コードを五重に巻かれた妻と、2人の子どもの焼死体が発見されました。妻の下着は片足が脱がされており、体液の付着した男物のパンツがありました。また、金庫の中の現金がなくなっていました。なお、主人は取引先の関係で万博見物に出掛けて留守でした。
警察が容疑者として目をつけたのが、高校卒業後、この商店で働いていた内気でおとなしい青年でした。店から徒歩2、3分の所に下宿を借りてもらい、食事は店で三食とも世話になる「半住み込み」の生活だったといいます。
青年は事件当日、店の仕事を終えて夕食もこの店の妻や子ども達と一緒に済ませ、その後母校の高校の体育館で、所属するバスケットボール部OBチームの練習に加わりました。解散して自宅に帰り、テレビの11PMや大相撲ダイジェストを見て就寝していたところ、午前2時すぎに火事を知らされて店にかけつけたといいます。11PMの番組で記憶している場面は11時32分から42分にかけて放送されたものでした。
しかし、警察は事件当初から犯人と決めつけた取り調べをしており、徹底した尾行や、任意聴取でありながら早朝に連行して深夜まで拘束することを繰り返していました。そして、事件から3カ月たった8月28日に逮捕状が執行されたのです。
その後、「『いつまでも夜遊びしていてはいけない』と叱られてカッとなり奥さんを殺して、現金、免許証入れ、指輪を盗った」などと供述するようになります。
しかし、それは、「『お前がやった、お前がやった』と警察の偉い人にも取り囲まれ責められ、もうどんな弁護も逮捕された以上聞いてはもらえないと絶望的に」なったからでした。
拘置所へ移った後、世話になっていた福祉関係の先生から「事件のことは詳しくはわからんが、やったならやった、やらんならやらんとはっきり言って公正な裁判を受けなさい」と激励されたことで、絶望的な状況から抜け出そうという気持ちを持つようになったといいます。

こうした状況下で同級生の無罪を獲得するために運動した人たちが、それから25年後、ちょうど四半世紀を経て再び同級生に凶悪事件の犯人の疑いがかけられたとしたら、どんな思いでいたのだろうかと思います。

事件の記憶は今も

松本サリン事件から30年を前に、事件の現場を訪ねてみました。事件が起きた周辺は、驚くほど当時と変りがありませんでした。報道によれば、生命保険会社の寮の跡地が公園になり、献花台が設けられたそうですね。
河野義行さんは、奥様の三回忌の後に鹿児島県に移住したと自著に記され、その後は豊橋に移って講演活動などもされていましたが、近年はあまり表に出てはいらっしゃらないようです。ご自宅はひっそりしていましたが、きれいに管理されている印象を受けました。

事件の犠牲になって命を落とされた方、事件の影響で身体や心の大きな傷や負担を負われた方に、少しでも安らかにとお祈り申し上げます。

生命保険会社の寮は公園になっていた。報道によれば、事件の献花台が置かれたようです。

その日は長野市内で旧知のメディア関係と食事をしたのですが、自然と松本サリン事件の話になり、当時の割り切れない思いを吐露しあうこととなりました。あの事件に関わったメディア関係者にとっては、今も胸のつかえ無しには語れない重い出来事でした。

警察の強引な捜査や、手前勝手な理由からうまれる冤罪事件は、決して過去の出来事ではありません。近年でも、そうした事例はいくつも見受けられます。捜査関係者もメディアの人間も、折に触れて過去の反省を思い出すことが必要なのです。

30年前に私が編集部に書き送った同級生達の証言は、結局は一文字も記事になりませんでした。松本で取材した敏腕記者の原稿だけでも誌面に収まり切れないほどだったのでしょう。
ただし、記事をとりまとめていたデスクは記事の結びの文章で、事件の真相はまだ分からない、と書いてくれました。他のメディアが河野さん犯人説に前のめりになっているタイミングでは、それは異色のスタンスでした。
当時のデスクの判断と、ひょっとしたらその後押しになったかも知れない同級生の方々の証言や、京都の勤務先の方々の証言に、感謝しています。私には見識があったわけではなく、ただ幸運であったにすぎません。

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