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わさびと日本人

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世界文化遺産ともなった和食に欠かせないわさびですが、全国津々浦々で日本人がわさびを食すようになったのは意外と最近のことなのです。身近だけど知らない歴史を楽しみながら紐解いて行きま… もっと読む
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伊豆のわさび田はなぜ石を敷き詰めるのか? 江戸時代はそうではなかったのに。

このシリーズをここまで読み進めてくださっている方は、わさびに関心の深いかたばかりかと思うので今更説明の必要は無いかも知れないが、「わさび栽培法の確立が握りずし誕生を可能にした」の回で記したように、江戸でにぎり寿司が考案されてわさびが庶民の生活に普及する前段階として、わさびの栽培方法が伊豆半島に伝わり江戸へ出荷されたことがあった。  伊豆半島は今でもわさびの一大産地であり、一度は訪ねて見たいと思っていたが、公共交通機関では山間部の交通が不便でなかなか足を伸ばせないでいた。今回、

東京のわさび 2大産地の復活運動は今

三鷹のわさびと、奥多摩のわさび わさびの歴史を資料をもとに辿ってきたが、実際のわさび栽培はどのようの行われているのだろうか。  今回は、東京の2つの生産地を訪ねた体験談を記しておきたい。ひとつは、三鷹市が復活に尽力している大沢わさび。もうひとつは、JR武蔵五日市駅からさらに奥に入った檜原村のわさび田復活プロジェクト。東京のわさびと言いながら、この2つは栽培方法も、わさびの種も全く異なっている。 クローン技術で復活なるか、三鷹の大沢わさび 三鷹市はスポーツと部下部生涯学習課が

GHQと闇すし屋 日本の食卓を変えたチューブわさび

 前回は関東大震災ですし職人が東京から地方都市へ移っていく直前に誕生した粉わさびの歴史を辿ってみた。では、そのまま順調に普及したのかというと、ある問題を抱えていた。 辛味が抜けてしまう日本のわさび 粉わさび誕生の経緯を詳しく書いた『小長谷才次伝』は、こう書いている。  しかし、『わさびのすべて』は、やや説明が異なっている。  日本のわさびでは辛味が抜けてしまう問題があったのだと指摘している(また、大正期でもわさびの通年栽培が難しかったことも指摘している)。  また、『

一大革命、粉わさびの誕生物語

 前回、大阪への握りずしの定着と、長野や山陰などの地域へのわさび栽培の広がりを見てきた。  しかし、それでもわさびの産地は限定的である。今でこそスーパーの野菜売場にいけば生のわさびが売られていたりするが、当時の輸送体制では、全国津々浦々というわけには行かないだろう。  そこで不可欠なのが、粉わさびの誕生である。 粉わさびがお茶どころ静岡で生まれた必然性 粉わさびの誕生を知るために不可欠な資料が『小長谷才次伝』(1964年)である。静岡県山葵漬工業共同組合及び静岡県山葵粉

握りずしが全国に広まったのはいつか

 かつて神楽坂には「大〆」という蒸し寿司と押し寿司を出す店があった。ステンドクラスの窓のハイカラな雰囲気の伝統的なすしの取り合わせが面白かったが、残念ながら2017年7月に閉店したようである。明治43年(1910年)創業だったとか。茶巾ずしが有名な四ッ谷3丁目の「八竹」は大正13年(1924年)だとか。  一方、関東の握りずしはいつ頃、大阪で広がっていったのだろうか。 大阪に握りずしが定着した契機は関東大震災 東京の名店、「松が鮨」は明治16年(1883年)に大阪の島之内

明治の握りずし 華屋与兵衛の名声と残念な事件

 前回、握りずしの考案者である華屋与兵衛の時代には、わさびが半年間しか出荷出来なかったとする説を紹介した。華屋与兵衛がおぼろずしなど別形態のすしも発明していったのは、そうした理由もあったかも知れない。  仮にわさびが通年で供給出来たとしても、夏場はネタが傷みやすく、苦労があっただろう。  今回は、この問題へのひとつの回答と、松が鮨、與兵衞ずしのその後について考えてみたい。 江戸っ子は一年中すしを食べていたのか問題 江戸前鮨は海鮮寿司と違い、ネタに対して〆る、漬ける、煮る

わさび栽培法の確立が握りずし誕生を可能にした

なぜ、わさびの名産地といえば静岡なのか?  わさびの産地といえば静岡。お土産売場では、様々なわさび関連商品が売り出されている。しかしなぜだろうと、疑問に思ったことはないだろうか。  静岡市から安倍川沿いに車で北へ約30キロ、支流沿いに道を分かれて溯ったところが静岡市葵区有東木(うとうぎ)地区で、わさび栽培発祥の地という石碑が立っている。慶長年間に自生していたわさびを村人が湧水地に植えたところ繁殖し、栽培方法が確立されていったという。  慶長12年(1607年)に駿府城に

元祖握りずし 両国に華屋与兵衛の跡を訪ねる

 今では海外で知られる日本食の代表選手ともいえる握りずし。現在のように酢飯の上にわさびを乗せ切り身の魚と一緒に握るスタイルを確立したのは、華屋与兵衛とされている。 元祖握りずし・華屋与兵衛に江戸っ子が大行列 同名のファミリーレストランチェーンとは関係ない。墨田区観光協会は次のように書いている。  華屋与兵衛が両国に店をひらいたのが文政7年(1824年)。11代将軍家斉の治世で、異国船打払令(1825年)が出された頃。大政奉還(1867年)まで40年あまりといった時代だ。後

「刺身にわさび」はいつからか?

 和食がユネスコ無形文化遺産に登録されたのは、2013年12月4日。世界に知られるようになった和食、ことに寿司や刺身には、わさびの存在が欠かせない。しかし、日本人はどれほどわさびのことを知っているのだろうか。  唐辛子であれば、かつて椎名誠さんも高く評価した『トウガラシの文化誌 』(アマール ナージ/晶文社)が思い浮かぶし、他にも唐辛子の文化史を巡る本は何冊かある。しかし、わさびに関してはどうだろうか? 学術的にまとまった本はあるのだが、一般的な読み物としては思いのほか見当