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アラサーになったら「オタクのゾンビ」になった

「オタクのゾンビ」。

ここ数年の私の状況を一言で表すならばそんな感じだ。

7年間。これは私が今のジャンルに居座り続けた期間。長いと思うか短いと思うかはあなた次第だ。ただ、私は大体、3年程度でジャンルを鞍替えするタイプのオタクだった。

にもかかわらず7年間居座り続けるほど、今のジャンルが本当に好きで──というのは半分本当で半分嘘だ。

7年間と言ったが、熱量を持って活動できていた期間はおそらく4年間くらいだと思う。最後に出した同人誌が3年前のものだったので。

つまり、近々2~3年の私はほとんど惰性でジャンルに居座り続けていた。現れなかったのだ、新しく夢中になれるコンテンツが。

それってつまり、私はまだ今のジャンルを楽しんでいる最中ってことなんじゃないか?有難いことに、何年経っても公式は活発なジャンルだったので、映画を見に行ったりコラボカフェに出かけたり、その他メディアミックスに手を出したりもしてみた。でも、出会った当初のような興奮や喜びは再び湧き上がってこなかった。

悲しいけれど今のジャンルは潮時かもしれない。そう思って旬ジャンルに手を出しまくった時期もあった。口を開けていれば浴びるほどの供給がある新興ジャンルはそれはそれは刺激的ではあったが、かつて溺れるように新規ジャンルに落ちていった時のような、脳の正常な働きをすべて奪われるような恍惚は無かった。

──もしかしたら私は、オタクじゃなくなったのでは?。

やがて浮かんだ疑問は、私を大いに動揺させた。

20年。私がオタクとして、腐女子として生きてきた時間だ。物心つく前から少年たちのくんずほぐれつに愉悦を感じ、貴重な10代と20代を男たちの恋模様を見守り続けるのに費やしてきた。

悪いが私は、「後になにも残らなくたって、その時の私の心を支えてくれた存在は無駄なんかじゃないよね。」と思えるほど、実益を兼ねない趣味に寛容にはなれない。

私は推しコンテンツを通じて歴史にめちゃくちゃ詳しくなったり音声ソフトを使いこなせるようになったり刀剣への造形を深めたりラップで人をディスれるようになったりした経験がない。信じがたいことにオタク趣味を通じてできた友達さえも存在しない。

つまり、推しコンテンツそのものが生きる支えになったことはあっても、推しコンテンツが私という人間に深みを与えたという経験は一切ない。私はどうしようもなく、ペラッペラなオタクなのだ。

要するに、オタクでなくなった私には何も残らないのだ。まごうことなき無である。私の20年の妄執の果てには、果てしない「無」だけが広がっているのだ。

ものすごく恐くなった。
だから、気づかないふりをすることにした。

呟きもしないのにTwitterに張り付く。目当ても無いのにpixivを巡回する。大して心を動かされても無いのに、かつての私が好ましく思ったであろう作品にハートマークをタップする。そこに沸き起こるべき感情の沸かないまま、かつて習慣にしていた行動を形だけ繰り返す。

私は、「オタクのゾンビ」になっていた。

アラサーになっていきなり広大な虚無と見つめ合い、これまでのツケを清算するのに比べれば、また自分がオタクであると思い込むほうがはるかに楽だったから。

同時に、絵を描いていた時間で資格の勉強を始めた。サブスクをたくさん解約して美容医療に通い始めた。今まで手を出そうとも思わなかった一眼レフを購入した。あんなに馬鹿にしていた自己啓発本を購入していた。30代を目の前にして分かりやすく惑い始めた私は、「これでいいのかもしれない」とさえ、思い始めていた。


一週間前、Youtubeであの広告を見せられるまでは。


簡単なおつまみの作り方を調べているときに、たまたま流れた広告だった。いつもだったらイライラしながらスキップボタンの出現を待つはずの時間に、画面から目を離せなくなっていた。流れている音楽と動画のセンスが、とんでもなく強烈だったから。

どうやら、あるコンテンツのキャラクターソングらしかった。歌声もとてもいい。やがて映し出される、声の正体。全身の立ち絵がパンアップでなめるように、つま先、脚、お腹、胸、首筋へと──。最後に画面いっぱいに映し出された意志の強そうな目が、こちらを射抜くように見つめていた。

脳みそが、溶けるかと思った。

そんでもって、溶けた脳みそが全部鼻から出るかと思った。内臓の底の方から沸き起こってくるような動揺と混乱と興奮に支配される。指先までじわじわと熱くなるような、背中の産毛がすべて逆立つような。久々の感覚に、私はもはや涙を流しそうになっていた。


──”コレ”だ。


気が付いたら、公式アカウントのベルマークと青い鳥のマークを押していた。本当に久方ぶりに、ペンタブのスイッチを入れて絵を描いていた。シミにレーザーを当てるはずだったお金で、グッズを買い込んでいた。一眼レフと自己啓発本は、多分そのうち埃が積もることになるだろう。

これが正しいのかなんて分からない。多分、世の中的には間違っている。

それでも。

私は、20年の妄執を手放さなくて済んだことに、今どうしようもなく安堵している。

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